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縄文時代最大級、三内丸山遺跡

あさみちゃんは小学校5年生の女の子。

元担任の先生で今は学習塾を経営している神山久美先生のところにやって来ましたが、今日は何か興奮している様子です。


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あさみちゃん「先生今日ね、三内丸山遺跡のスライドを見たの。すっごく昔なのに、あんなに大きくて人がいっぱい住んでいたんだねえ。」

久美先生「あさみちゃん見たんだあ、三内丸山遺跡。この遺跡はこれまでの縄文の遺跡のイメージを覆す大発見だったのよ」

あさみちゃん「先生も言っていた。長い間同じところにたくさんの人にとどまっていたなんてすごいって。でもね、よくわからないの。

たくさんの人が一緒に暮らしているのに食べるものってあったのかなあ。だってお米を作る前の話でしょ。とってくるだけでみんなお腹はいっぱいになったの?」

久美先生「なるほど、食糧問題ね。では今日は三内丸山遺跡について少し勉強してみましょう」

久美先生「三内丸山遺跡というのは、あさみちゃんも知っているように青森県にある日本最大級の縄文遺跡なんだけど17世紀の初め江戸時代初期には、ここに何か古いものが埋まっているぞって感じですでに知られていたの。

江戸の後期には有名な紀行家の菅江真澄が土器や土偶のスケッチを残しているわ。第二次世界大戦後になってから学術的な調査が始まるんだけど、これだけ大きな集落跡であることが分かったのは平成になってから。

まだ調査中で、全容が解明されるのはもう少し後のようね。発掘された遺物や遺跡の様子だけ見てもビックリするようなことばかりだから全部はっきりしたらどんなにすごいか」

あさみちゃん「これまでの縄文のイメージって先生さっき言っていたけど、それってなあに?」

久美先生「ああ、それはね、縄文時代の次の時代を弥生時代というのだけれど、大陸から青銅器や鉄器とともにお米の栽培の技術を持った人たちがやってくるのね。

今の日本に住んでいる人たちはそれによって定住を始めたと考えられていたの。それまでは狩猟採集といって食べるものを追って移動しながら生活していたと思っていたわけ。

でも、三内丸山遺跡の発掘で分かったことは、今から約5500年前の、というから縄文前期から約4000年前の縄文中期末まで、約1500年にわたって人が住んでいたらしいということなのね。

住居跡がたくさんあって、最初の頃は40棟~50棟で、1棟につき約4人から5人と考えると約200人が、約4500年前の最盛期には100棟ぐらいあるから500人くらいが暮らしていたのではないかという説も出てきたの。

これはちょっと多すぎるということで、この数字は今はあまり信じられていないけど、それでも、これまでの『移動しながら』という考え方から比べると新たな認識を迫られる発見よね。」


久美先生「それでいよいよあさみちゃんの疑問、食糧問題に行きます」

あさみちゃん「待ってました!」

久美先生「三内丸山遺跡というのはとても大きくて約370000万平方メートル、東京ドーム約7個分の広さなんだけど、その近くには落広葉樹の森があってクリやクルミなどを採ることができました。

そして驚いたことにクリのDNAを調べたら栽培していたということが分かって、これは本当にこれまでの縄文のイメージをひっくり返すことになったわけ。

クリだけじゃなかったのよ、イモ類、豆類も食べてたし、エゴマやヒョウタンも栽培をしていたということよ」

あさみちゃん「魚もたくさん食べていたんだよね」

久美先生「よく知っているわねえ。マダイやサバ、ヒラメやブリ、ニシンにフグも食べていたというからけっこう高級ね。お肉ではシカやイノシシ、ノウサギにムササビも食べていたそうよ。

それに魚や肉は焼くのではなく、土器に入れて水を入れ煮て食べていたらしいの」

あさみちゃん「焼くのとどう違うの?」

久美先生「焼いてしまうとそのものだけを食べることになるけど、煮ると美味しいスープもできるじゃない。その方がずっとお腹にも貯まる。

先生が考古学の先生から聞いた話では、焼くつまりグリル料理は特別な時に食べていたのではないか、ということよ。」特別な日で思い出したけど、お酒も造っていたんですって。

エゾニワトコを中心にサルナシ、クワ、キイチゴの果樹酒。集落の人たちがみんなで協力して作り、大事に取っておいておマツリなどの時に飲んでいたのではないかと考えられているわ」

あさみちゃん「何だかお酒もあって食べるものには困らない感じ」

久美先生「あと重要なのは、他の地域との交易が盛んに行われていたということ」

あさみちゃん「どういうこと?」

久美先生「ヒスイや黒曜石、コハクやアスファルトといったその地では採れないものが多数発見されているの」

あさみちゃん「どこから持ってきたの?」

久美先生「ヒスイは600キロメートルも離れた新潟県の糸魚川、黒曜石は北海道や日本海側を中心とした地域、コハクは岩手県の北部久慈産で、アスファルトは秋田や新潟・山形・長野。

昔の三内丸山は今よりずっと海が近かったんだけど、そこまで道路が続いていたということよ」

あさみちゃん「へえ、三内丸山遺跡ってすごいんだねえ」

久美先生「そうねえ、でもここで注意!ここまで話してみると三内丸山だけが発展していてすごいって感じだけど、それはちょっと違うと思うんだな。

つまりね、確かにこの地は落葉広葉樹の森のそばで海(陸奥湾)からも近いし水の便(沖舘川)もいい。その小高い丘の上という好立地に集落はあるんだけど、この近くにも遺跡はあるのね。

昔の人の生活跡というのは発掘調査をして初めてわかるんだけど、何か工事をして土を掘り起こすことがきっかけとなる。

狭い範囲だと、ちょっとの土器片が出てきただけでは簡単な調査で澄ませそれ以上は掘り出さないで、埋め戻してしまうということが多いのね」

あさみちゃん「うう~ん、何だか難しくなってきた」

久美先生「ごめん、ごめん。三内丸山について言うと、ここは野球場を作る計画で最初から大々的に工事が行われて、たくさんの土器片が出てきて大きな遺跡が発見されたということなの。だから、三内丸山遺跡は大きいともいわれるわけで

この遺跡の南、同じ青森市内に小牧野遺跡という今から約4000年前の遺跡があるんだけど環状列石という、とても注目されている遺構があるの」

あさみちゃん「コマキノ遺跡にカンジョウレッセキ?」

久美せんせい「石を一定の間隔で置いていったもので、三重の環(一部四重)を描いていてとても珍しいの。お墓が近くにあるから、なにかお墓と関係しているのではないかといわれているわ」

あさみちゃん「つまりどういうこと?」

久美先生「三内丸山遺跡だけで考えるのではなく、青森県や東北地方一帯として今までの縄文時代のイメージを一掃してしまうようなとても進んだ技術、高い精神性が推測されるということ。

お米や青銅器や鉄器はないけれど、食べ物も豊富で豊かな心を持った快適な生活を送る人々の姿が想像されるんじゃないかな」

あさみちゃん「なんとなくわかってきた。今みたいに便利なものはないけどってことだよね」

あさみちゃん「学校の先生が三内丸山遺跡は見学ができるって言ってたけど、私も行きたいなあ」

久美先生「ちょっと遠いけど見学はできるわよ。

    「JRの青森駅からは車で20分(7キロメートル)、市営バスでは『三内丸山遺跡』行きに乗って『三内丸山遺跡前』で下車。見学は無料で、展示室『さんまるミュージアム』も無料で入れるの」

あさみちゃん「わかった。今度お父さんに言って、お休みの日に連れて行ってもらおうっと」


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