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縄文時代の遺跡ー西日本

小さな学習塾を開く神山久美先生は元小学校の先生。そこに元教え子で5年生のあさみちゃんが何かうかない顔でやってきました。

久美先生「あさみちゃん、元気ないみたいだけどどうしたの?」

あさみちゃん「先生今日ね、私たちのクラスに転校生が来たんだけど、なんだか変な雰囲気になっちゃって」

久美先生「あらあら、早くも喧嘩ですか?困ったことだこと」

あさみちゃん「喧嘩ってほどじゃないけど。その子鹿児島から転校してきたんだけど、あいさつで、僕の家の近くには日本で最も古い遺跡がありましたって言ったの」

      「私たちは三内丸山遺跡のこと勉強していたから、北の方が栄えていたような気がしていて。それに火焔型土器も新潟県とかだよね。日本の西の方ってよくわからなくて」

      「それでみんなざわついて。そしたらその子、何だかむきになって、それで雰囲気悪くなって…」

久美先生「なるほどねえ、そういうことか」

    「でも先生前にどの都道府県にも縄文時代の遺跡はあるって言ったよね。縄文時代は1万年もあるから、その間人々は住みやすい所で暮らしていたわけで」

あさみちゃん「でもさ、河合君は、あ、その子河合慎吾君ていうんだけど、一番古いって言ったんだよ」

      「鹿児島って日本でもずっと西の方だよね」

      「それって今の日本に人が住み始めたのは西が先で、それから徐々に北に上がってきたということ?」

久美先生「分かりました。今回は縄文時代の西日本についてお話ししましょう。あさみちゃんのぼんやりとした西日本のイメージが少しでもはっきりするようにね」


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久美先生「まずねその鹿児島の『もっとも古い遺跡』についてだけど、それはおそらく『加栗山遺跡』か『上野原遺跡』ね」

    「『加栗山遺跡』はシラス台地の上に位置していて、約11500年前の薩摩火山噴火層の中から竪穴住居跡が見つかったの」

    「半円形上に分布した17棟の住居や調理施設の連結土坑33基、集石が17基で南九州特有の貝殻文様の円筒土器や角筒土器も出土しているわ」

    「『上野原遺跡』は竪穴式住居10棟が今から約9500年前に噴火した桜島の火山灰に埋まった状態で発見されたということよ」

    「両方とも縄文時代早期前葉だから、最古級といっていいわね」
    
    「それにこの近くにはもっと早い約1万1000年前に降った火山灰の下から発見された草創期の『掃除山遺跡』というのがあって竪穴住居が2棟、調理用の施設などが確認されているの」

    「ただこちらはちょっと問題。土器など遺物の量が少ないのと縄文遺跡につきものの広場を持たないということなどから旧石器時代から縄文への移行期のものと考えられているわ」

あさみちゃん「旧石器時代って縄文時代の前だよね。もっと古くから九州では人が住んでいたんだ」

久美先生「そうね。以前は旧石器時代には日本列島には人は住んでいないとみられていた時期もあったけど、今では調査が進んで北海道だけでも500箇所、本州では5000箇所くらい遺跡があるのではといわれているの」

あさみちゃん「へえ、すごいんだねえ」

久美先生「旧石器時代は移動しながらの生活だから、痕跡を追っていくと自然と多くなるのかもしれないわね」

    「話を九州に戻すと、例えば大分の『早水台遺跡』や長崎の『泉福寺洞窟』は旧石器時代からそこに人がいたという跡が残っているのね」

あさみちゃん「洞窟に住んでいたの?」

久美先生「そう。岩陰遺跡といって、『泉福寺洞窟』は旧石器時代から弥生時代まで利用されていたというから、相当、住みやすかったのね」

    「西日本全体からみると、貝塚も多くてとても早い時期からたくさんの人の生活の跡がたどれるんだけど、縄文時代のもっとも盛んな時期と見られる中期の『三内丸山遺跡』のような大きな遺跡はまだ確認されていない」

    「中期の遺跡の少なさに対して後期から晩期に位置する遺跡は佐賀県の『菜畑遺跡』や福岡県の『板付遺跡』、岡山県の『津雲貝塚』や大阪府の『池島・福万時遺跡』、奈良県では『橿原遺跡』も遺物の土器は晩期」

    「それに愛知県の『伊川津貝塚』も後期から晩期といわれているわ」

あさみちゃん「ずいぶんたくさん出てきた、もうわからないよう!」

久美先生「ごめんね。ただ後期や晩期の遺跡が多いからといって西日本が東よりも遅れていたということにはならないの」

あさみちゃん「どういうこと?」

久美先生「例えば、『菜畑遺跡は』最古の水田耕作遺跡として有名だし、『板付遺跡』は菜畑遺跡に次いで古い水田耕作跡が確認されている」

あさみちゃん「水田耕作って縄文時代にはなくて弥生時代に入ってからだって学校の先生言っていたよ」

久美先生「そうなの、稲作は大陸からの文化だということを考えると、東日本で縄文後期や晩期にあたる時代には、もう、西日本は弥生時代にちょっと足を踏み入れている時期ということになるのね」

    「つまり、プレ弥生時代、弥生時代の前段階に入っていたということ。要するに西日本と東日本を一つの物差しで測ることは難しいってことかな」

あさみちゃん「でもなぜ?縄文時代も人の行き来は今の想像以上にあったって、先生前言ってなかったっけ?東と西ではどうして違いが出てきたの?」

久美先生「あさみちゃん、するどい所ついてくるわねえ。それはね、森の様子が西と東では違っていたからなの」

久美先生「東日本は落葉広葉樹林といってブナやコナラ、クリ・カエデ・トチノキ・クルミの木の森なんだけど、たくさんの食べられる実がなるし、森の中は明るくて下草が生え動物たちも生活するのに適したところなのね」

    「『三内丸山遺跡』の周囲にはこの落葉広葉樹林があってクルやクルミを栽培していたし、シカやノウサギなんかも獲っていた。下草ではワラビやゼンマイなどの山菜も豊富だった」

    「それに対して西日本は照葉樹林といって、シイとかカシ、クスノキにツバキなどの木の森で、上から見るともこもことしたブロッコリーのような形。うっそうとしていて暗いから動物たちの住処には適さないの」

    「さらにこの落葉広葉樹林と照葉樹林の区別も西と東、ある一線できっちり分けられるかというとそうではないから、地域として考えた方がいいかな」

あさみちゃん「西と東、古いとか新しいとか、多いとか少ないってはっきりと決めちゃいけないんだね」

久美先生「そうね。ただいえることは、私たちがイメージする縄文時代の暮らしというものが、落葉広葉樹林を基礎とした暮らしにあるいうことだと思うの」
   
    「その暮らしが最も充実した様相を示している遺跡が多いのが、西日本より今のところ東日本、特に北陸や東北地方に多いということになるのかな」

あさみちゃん「なるほど、なるほど」

久美先生「それから、西日本という枠組みで考えるとしていえることが、プレ弥生時代ということの他にあるの。それが抜歯や叉状研歯」

あさみちゃん「ああ、教科書の写真にのっていた。痛そうだねえ、なぜそんなことしたのかなあ」

久美先生「抜歯の方が叉状研歯より早いんだけど、14歳から16歳ごろに施されているところから成年式の儀礼とか、ほかの集落との婚姻関係を表しているのではと考えられているわ」

あさみちゃん「大人になった証拠とか、結婚とか?」

久美先生「そう、どこの歯を抜いているのかということも研究されていて、意味があるようよ」

    「叉状研歯は普通の人ではなく、呪術者か何か特別の人ではないかということよ。人骨では一人の人の歯で抜歯も叉状研歯も施されている例もあるからすごく痛かったでしょうね」

あさみちゃん「縄文時代に生まれていなくてよかったあ」

久美先生「それでね、この抜歯や叉状研歯が見られるのが縄文晩期の遺跡の『伊川津貝塚』(愛知県)なの。他にも東海地方の西部や近畿地方に出土した人骨から確認されているので、西日本に多いかな」

あさみちゃん「それってどういう意味があるの?」

久美先生「うう~ん、ちょっと難しいんだけど、縄文時代晩期はだんだんと寒くなってきてね、これまでの大きな集団を維持できなくなっていったと考えられているの」

    「集団が小規模になって、それぞれの帰属意識、つまりそこの仲間だぞっていう意識の現れとして必要だったのではという指摘もあるわ」

あさみちゃん「仲間だからって歯を抜かれるのは嫌だあ、やっぱり縄文時代に生まれていなくてよかった」

あさみちゃん「なんだか人骨とか出てきて怖いけど、私たちでも見ることはできるの?」

久美先生「『伊川津貝塚』は行けるわよ。愛知県の田原市伊川津町で、詳しいことは渥美半島観光ビューローで聞いてね」

    「近くには吉胡貝塚史跡公園や保見貝塚もあって、伊川津貝塚と合わせて渥美半島の三大貝塚と呼ばれているわ。是非一緒に立ち寄ってみてね」

あさみちゃん「怖いもの見たさで行ってきます!」


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