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弥生時代の髪型

正木明人先生は元小学校の教師。父親の跡を継いで老舗古本屋の店主が今の職業。店主というにはいささか風格不足で、年代物の黄ばんだ本よりメタリック輝くシャープな洋楽器がお似合いの風情。

それでもチョークをはたきに持ち替え、鼻歌まじりにホコリを払う姿はどこか嬉し気で軽やか。

そんな明人先生のもとにやってくるのは、いつも何かしら疑問を抱えているもと教え子のたかや君。首をちょっとかしげた格好が彼のスタイルの中学1年生です。

今日も明治のころから本好きな人々を招き入れてきた重厚なガラス扉を平成の少年が押し開け入ってきました。

たかや君「先生、こんにちは」

明人先生「やあ、たかや君こんにちは。おや、頭がすっきりしたね。髪切ったのかい」

たかや君「お母さんが切って来いって、うるさいから。ぼく1ヶ月に1度くらい必ず行かされるんですよ」

    「もう面倒で、何で切らなくちゃいけないのかなあ」

    「で、思ったんです。弥生時代の男の人も髪切らなきゃいけなかったのかって」

    「先生、弥生時代の人たちはどんな髪型をしていたんですか?男の人は短かったんですか?」

明人先生「髪型か。あまり遺物として残っていないから難しいけどうん、でも何とか探ってみよう」

たかや君「お願いします。答えによってはぼくお母さんに抗議しようかな」

明人先生「おいおい、私を引き合いに出すのだけはごめんだよ」


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明人先生「まずは今言ったようにはっきりと髪型が分かるような遺物は多くない」

    「縄文時代の土偶のようなものがあればいいんだけど。土偶から髪型だけでなく服装まで推測できる」

たかや君「そうですね。土偶は女性が多いけど、とにかく種類がたくさんある。お団子にしたりポニーテールにしたり、頭の上を丸く膨らませたり」

    「朱塗りの櫛や骨でできたヘアピンやヘアバンドなんかもあって、帽子を被っている土偶もありますね」

    「あ、そうだ!今思い出した。髪を耳の横で輪にして束ねた髪型、先生ありましたよね?」

明人先生「よく覚えているね。それは〝みずら(美豆良・角髪)〟と言うんだ。邪馬台国の卑弥呼に仕える人のヘアースタイルとして認識している人が多いね」

    「“みずら”とは、一般には男性の髪型といわれている」

    「髪全体を二つに分けたのち、耳の横で括って垂らす。そのまま輪にするか、輪の中に余った髪を八の字型にする」

    「八の字にしたものをものを“上げみずら”と言い、作業に適しているので埴輪の農夫像などはこの髪型で、古いタイプだ」

    「輪を紐などで縛って髷を二つに作ったものもあり、少女などにも見られる」     
     
    「結んだ輪が肩まで垂れているのが“下げみずら”で、身分の高い人の髪型になる」

    「考古学的史料としては『武者塚古墳』(茨城県土浦市)からほぼ完全な形で左側のみづらが出土している(長さは約10㎝)」

    「だけど時期は7世紀後半ごろで、時代で言うと古墳時代の終末期(飛鳥時代)だからずいぶん後だね」

    「古墳時代に多く作られた人物埴輪の中にみずら姿の武人らしいものがあるが、そもそも埴輪の中でも人物埴輪が作られるのは後になってからなんだ」

    「弥生時代は紀元前の5世紀半ばから紀元後の3世紀半ばごろまで。もちろん地域によっても違いはあるけど」

    「邪馬台国については未だ詳細はわからないが紀元後の1世紀から3世紀ごろまで、ちょうど弥生時代の後半にあたる」

    「つまり弥生時代の前半、紀元前の4世紀ごろから紀元前後くらいが空白期間ということになる」

    「で、ここで出てくるのがあの『吉野ケ里遺跡』。なんと甕棺墓から“みずら”と思われる毛髪が出土したんだ」

    「これにより弥生時代から男性は“みずら”をしていたことが確定した」

たかや君「邪馬台国については『魏志倭人伝』で書かれているんですよね」

明人先生「そう、まだ列島には文字はなかったけど、中国では歴史書が編まれていた。『魏志倭人伝』の邪馬台国についての記述の中に人々の様子も書かれている」

    「それによると、男は『皆髷を露わにし、木綿の布を頭に巻いている』、と述べられている」

たかや君「〝みずら〟とか〝輪にしている〟とかの言葉は無いんですね」

明人先生「そうなんだ。言葉を知らなかったか当時はその言葉自体がなかったか。でも“髷”とあるから括ってまとめていたのだろう」

たかや君「ムラを吸収・併合するようにしてクニができてくるんですよね」

明人先生「そうだね。邪馬台国はそのクニの中でも大きな連合国家を築いたと考えられる。階級も複雑にあってそれに応じた服装、髪型をしていたと推定されるね」

    「まあ、スタイルとしてあまり切るという発想はなかったんじゃないかな」

たかや君「それ聞いただけでも、お母さんに言えます。古代の偉い人たちは髪を切らなかったって」

明人先生「いやいやそうじゃない。むしろ長い髪を見苦しくないようにきちんとセットしていたとみるべきだよ」

    「今のようによく切れる道具や技術があるわけではないからね」

たかや君「そうですね。ぼくもちょっと無理があるとは思ってました」

明人先生「わかればよろしい」

    「面白いのは聖徳太子の髪型だよ。聖徳太子つまり厩戸皇子は6世紀後半から7世紀初めの人だから、やはりこちらも直接の史料とはならないのだが、参考として」

    「日本書紀によると聖徳太子の髪型は子供のころから十五・六までは“ひさごはな”にして、十七・八の間は分けて“角子(あげまき)”にしていた。そして今も同じ、ということだ」

たかや君「なんですか?その“ひさごはな”とか“あげまき”って」

明人先生「“ひさごはな”は子供の髪型で“ひさご”つまりユウガオの花のように額の上で髪をまとめお団子にして八方に広げるようにするスタイル」

    「“角子(あげまき”は“総角”とも書き、実は“みずら(美豆良)”のことなんだ。奈良時代に入ると輪を一つにしたみずらが主流になって聖徳太子像もそのようになっている」

たかや君「その時代まで“みずら”は続いたんですね」

明人先生「そういうことになるね。バリエーションは色々あるようだし、年齢によってもスタイルを変えている」

    「なんといっても前の縄文時代でも男性は髪を結っていたのだから様々だ」

たかや君「なるほど」

たかや君「女の人はどうですか?」

明人先生「書かれたのは紀元後4世紀と『魏志倭人伝』よりも遅いが、紀元後1世紀の“倭の奴国”についての記載がある『後漢書東夷伝』には次のように書かれている」

    「“女子は前髪をおでこに垂らし、後ろは折り曲げて結う”」

たかや君「ちょっとかわいい感じですね。今でもありそう」

明人先生「縄文時代にはアップにして頭頂でお団子を作ったり紐や布で押さえたりしていたから色々な髪型の一つととるべきだろう」

    「『古事記』には乙女の髪型として“おさげ”とある。おさげがみというと“三つ編み”ともとれるがこれはちがう」

    「“おさげ”とは先に挙げた肩のあたりで大きな輪を作る“下げみずら”のことで、残った髪は垂らしていたと推定される」

    「『日本書紀』には“垂れ髪をハチマキのようなもので押さえていた”とあるからバリエーションがあるようだ」

    「女性の場合も男性同様、身分とともに年齢や未婚・既婚で髪型は変わる。そしてこちらも伸びっぱなしではなくきちんとまとめているのがうかがえるね」

    「身分の高い女性では“古墳島田”というのもあるよ」

たかや君「“古墳しまだ”ですか?古墳時代ですね」

明人先生「そうだね。江戸時代に“島田髷”というスタイルがあるんだけどそれに似ているから“古墳島田”というそうだ」

    「名前の通り、古墳時代の埴輪の中にこの髪型が出てくる。残念ながら女性の髪型については直接弥生時代はこれという史料がまだない」
   
    「結い方は、髪を後ろの方で束ね内側に折り返して髷の中ほどをひもで縛って固定するが、その時髷が額よりも前の方に庇のようにもってくるのが特徴ということだよ」

たかや君「結構凝ってますね、髪の毛が豊富じゃないと結えそうにない」

明人先生「髷を色々アレンジしたり、紐や布を用いて様々だ」

たかや君「縄文時代も女性のヘアスタイルは多種多様だったからだいたい想像できます。大人の女性は特に垂らすというより頭の横や上の方でまとめるという感じですよね」

    「布で覆ったり、紐で縛ったり櫛で飾っていたことも」

    「あまり毛先を見せないという風にも見えました」

明人先生「うん、男性も女性もきちっとまとめながら表情をつけているという印象だね」

たかや君「先生“みずら”を見ることのできる所ってありますか?」

明人先生「武者塚古墳から出土したみずらを『上高津貝塚ふるさと歴史の広場(考古資料館)』でみることができるよ」

    「JR土浦駅からJRバス関東の”イオンモール土浦”行きに乗って終点で下車、徒歩20分ぐらい。詳しいことはHPを見た方がいいね」

たかや君「本物を見るってなんだかドキドキしますね」

明人先生「千年以上も前の人の髪の毛が残っていたなんて奇跡に近いんだ。貴重な経験だよ」

たかや君「はい、貴重な経験でしっかり見てきます」


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