スポンサードリンク

弥生時代の静岡県(東海地方)

空調の利いた快適なはずの部屋の中でも優に二世代は越す本の威風にあってはおのずとその風は年月を帯びるもの。いかんともしがたい重い空気がやはり年代物の壁からも流れ出て、店全体にしみわたる。

今だ開封をみない段ボールに三方を囲まれ埋まるように座し、黄ばんだページを恐る恐る捲るのはこの古本屋の店主。ある日突然父親からこのお店を押し付けられ何とか切り盛りをしている元小学校の教師、正木明人先生。

そんな主のところにやってくるのは教師時代の教え子たかや君。好奇心いっぱいの中学1年生は今日も何か質問をもって重い扉を開け入ってきました。

たかや君「先生、こんにちは!」

明人先生「やあこんにちは!たかや君。何だい、今日はまた浮かない顔しているねえ」

たかや君「そうなんですよ、先生。この間お父さんといっよに静岡の登呂博物館に行ってきたんですけどね」

明人先生「ああ、それはよかった。面白かっただろ」

たかや君「うん!すごく広い水田跡があって、住居も12軒に高床式倉庫、農業の他にも狩猟・漁撈で豊かな集落って感じでした」

明人先生「平成11年からの再調査では祭殿跡も出てきているから、弥生時代らしい集落のひとつだといえるね」

    「それでどうしたんだい?」

たかや君「それで思ったんですよ。他の静岡県の遺跡はどうなのかなって。『登呂遺跡』の他にあまり聞かないのは何ででしょうね」

    「今でも静岡県って温暖でミカンやお茶の栽培で有名でいい所じゃないですか。昔だって住みやすかったに違いないでしょう」

明人先生「そうだね、確かに住みやすい所ではあるけど、遺跡となると難しい。大きな建物でも建てる予定で深く掘って、とかでないとなかなか遺跡は見つからないんだ」

    「ちょっと広げて愛知県も入れて東海地方ということで見てみようか」

たかや君「いいですよ、お願いします」


スポンサードリンク



明人先生「まずは弥生時代の集落(遺跡)の分布なんだけど、東日本に多くの大規模集落が分布していた縄文時代と反対の傾向になる」

    「中国大陸や朝鮮半島から水田耕作が伝わるのは北九州地方からだからね」

    「紀元前5世紀中ごろに北部九州地方に伝わり西日本の多くの平野で稲作が始まるよ」
    
    「その後北上して弥生時代前期には東北地方まで伝播したとみられているから、その速度は結構早いね」

    「でも、地域によっては事情は様々なんだ。中部地方の高地に広がるには時間がかかったらしい」

    「耕作自体がその土地に合わなければやはり受け入れられないよね」

    「水稲耕作は低地や水の便の良い平野などに適しているから高地には不向きだったんだ」

    「東北地方より遅く北九州地方から200年くらい経ってからのことだということだよ」

たかや君「場所によって違うんですね。それで『登呂遺跡』なんですけど、登呂は弥生時代の後期、紀元後1世紀ぐらいの集落だと聞きました」

    「先生の話からするとずいぶんと遅い時期の集落ということになりますね」

明人先生「そうなんだ。それに広い水田跡と住居跡があるわりには弥生の集落に見られる環濠が見当たらない」

たかや君「あ、そういえばそうだ」

明人先生「じつは『登呂遺跡』の謎と言われていることがあるんだよ」

たかや君「何ですか、謎って?」

明人先生「生活用品が多量に残されていること、建物の柱が海側に傾いていること、青い砂土が床面に堆積していることだ」

    「これらのことからどうやら登呂は一瞬の出来事で崩壊したと考えられている」

たかや君「え、登呂の集落の終わりっていうことですか」

明人先生「うん、調査から原因はおそらく津波のようなものではなかったかと推定されているよ」

    「いわゆる“倭国大乱”は2世紀だから、その時期が来る前に消滅したので環濠を作る必要もなかったのだろう」

たかや君「なるほど『登呂遺跡』って短命だったんですね」

明人先生「それでもう少し手を広げて見てみようと思う」

    「『登呂遺跡』の西側、今の愛知県になるところに『朝日遺跡』がある。こちらは東海地方最大級の環濠集落で縄文中期末から弥生時代を中心に栄えた集落だよ」

たかや君「わあ、また登呂とは対照的ですねえ」

明人先生「周囲に小さな集落が点在する中心的な集落を拠点集落というけど『朝日遺跡』はそれだったと想定されている」

    「最盛期には1000人もの人々が生活していたということで、あの『吉野ケ里遺跡』にも匹敵する規模だったと考えられている」

    「弥生中期の前半には東墓域に非常に大きな方形周溝墓が造営されその周りを取り囲むように中小規模の方形周溝墓を配置するといった墓域が形成される」

    「西墓域はそれとは対照的に小規模なものが多いから、大きな集落が小さな集落を吸収していく過程のような様相だね」

    「玉造の工房なども見つかっていて、特殊な技術を持った人々がそこで大勢働いていたようだ」

たかや君「何か組織だったクニのようで、勢いのようなものを感じますね」

明人先生「さらに中期の初頭から後半にかけては三条・四条の環濠がめぐらされた上に、柵や逆茂木など防衛施設が建設されているんだ」

たかや君「物々しいなあ」

明人先生「周辺集落との緊張状態がうかがえるね」

たかや君「で、どうなったんですか?」

明人先生「中期の末葉には様変わりする。竪穴の建物も方形周溝墓の形も違うものに移行する」

    「東墓域、つまりお墓が作られていた区画に人が住み始め、以前の方形周溝墓を無視して新たな方形周溝墓が作られるんだ」

たかや君「ええ~、っていうことは」

明人先生「そう、乗っ取られちゃった形だね」

たかや君「もともと住んでいた人たちの生活の仕方が変わったのではなくて?」

明人先生「うん、集落の人々がその生活様式を変化させたというよりは人々そのものが変わったと見た方がつじつまが合う」

たかや君「やっぱり乗っ取られちゃったのか。前の人たちはどうしたんですか?殺されちゃったんですか?」

明人先生「人骨などが出土されていないから、捕虜としてどこかに連れて行かれたのかもしれない」

    「中期の後半には一部の環濠が再掘削されて水路ができたりしているということだから、新しい生活が始まったんだね」

    「墓域からでた壺棺には蓋として高坏を用いているものがあり、それはなんと日本海側地域と共通点が認められたそうだ」

    「つまりそちらの人たちが移動して住みついたと考えることもできるということ」

たかや君「うう~ん、今は昔って言う感じ」

明人先生「5世紀には円墳が造られ、6世紀以降は湿地化し鎌倉時代には墓地になったそうだよ」

たかや君「東海地方最大級の環濠集落でしたよね、『朝日遺跡』って。なんか寂しいですね」

明人先生「緊張、衝突、変化、移動、ストレスの多い時代だといえるね。人々はその中で翻弄されながらも、力強く生きていったんだ」

たかや君「争いを体験することなく一瞬の津波で崩壊した『登呂遺跡』と最大規模の環濠集落を築きながら戦いに敗れた『朝日遺跡』」

    「東海地方には色々な歴史を刻んだ人々がいたんですね」

明人先生「そういうことになるね」

たかや君「先生『朝日遺跡』から出た遺物を見ることはできますか」

明人先生「もちろん。“愛知県清洲貝殻山貝塚資料館”で見ることができるよ」

    「アクセスは東海交通の城北線尾張星の宮駅からは徒歩10分、JR東海道線清洲駅からは歩いて35分」

    「バスもあるよ。尾張星の宮駅からから出ている清須市あしがるバスに乗ってピアゴ清洲店前(清洲貝殻山貝塚資料館)停留所で下車すれば歩いて5分だ」

    「名古屋第二環状自動車道清洲東ICからだと車で約5分」

    「開館日が曜日で異なるから必ずホームページで確認した方がいい」

たかや君「了解!東海地方最大級の環濠集落、しっかり見てきます!」


スポンサードリンク


あわせて読みたい関連記事

サブコンテンツ

このページの先頭へ