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弥生時代の環濠集落

週に3回はメディアで紹介される商店街。一日中途切れることのない人の波をよけながら一歩わき道に入ったところにある古本屋さん。

知る人ぞ知る老舗の古書店で、そこだけ時間が止まったようなたたずまい。さりとて近頃は洒落たカフェやレストランが軒を並べこちらも中々の賑わいを見せるようになりました。

店主を務めるのは元小学校の教師の元木明人先生

もう先生ではないけれど、そう呼ぶ人がいる限り、やっぱり先生は先生なのです。

たかや君もその中の一人。中学1年生で明人先生のもと教え子です。

たかや君「先生、こんにちは」

明人先生「やあ、こんにちは。今日も来たね」

たかや君「先生、ちょっと聞きたいことがあってきました」

明人先生「君はいつも何か聞きたいことがいっぱいあるよね。別に何もなくても来ていいんだけど」

たかや君「ありがとうございます。でも本当にあるんですよ」

    「先生、今日学校で弥生時代に入ってそれ以前とは変わってきたことについて勉強しました。

    「そこで“環濠集落”と“高地性集落”というのが出てきたんですけど“高地性”というのは分かります。高いところに逃げたんでしょ」

    「でも“環濠”というのが分からない」

    「集落の周りを濠で囲むっていうことですよね。つまりは敵の侵入を防ぐということ」

    「それだけ弥生時代が危険な時代だったということだけど、どれくらいの規模とかそれで本当に守れたのかとか」

    「棒高跳びの要領で飛び越すことだってできそうなのに、それが弥生時代の集落の特徴だといわれてもなんだかぴんとこないんです」

明人先生「なるほどね。では今日は“環濠集落”について見ていこうか。
     たかや君を納得させることができればいいんだけど」

たかや君「お願いします。納得させてください」


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明人先生「ではまず“環濠”とはどういうものか見てみよう」

    「“ほり”という言葉だけど空堀の“壕”と水を入れた“濠”があるよ」

    「沖積地のちょっと高い微高地に作られたものを低地型といって“水濠”、台地や丘陵などに作られたものを高地型といって“空壕”だ」
    
    「考古学的な調査で確認されたものは“濠”の方を書くけど、そのすべてが水で満たされていたわけではないということ」

    「問題はその幅だよね。狭かったら確かに飛び越えられてしまう。防御施設としてはそれでは何の意味もない」

たかや君「そうですよ、全くそこ!」

明人先生「これまでで最古の環濠集落として確認されたのは福岡県の『江辻遺跡』だ。弥生時代早期というから、紀元前5世紀半ばから前3世紀ごろまでの間だね」

たかや君「随分と古いですね」

明人先生「幅は約1m。深さもあまりなくて、それでも周囲を二重に巡っていたそうだ」

たかや君「ああ、狭いじゃないですか。それなら僕にだって飛び越せちゃう」

明人先生「そうだね。この遺跡は朝鮮南部の影響を強く受けていると考えられていて『渡来系稲作集落』という別名もあるそうだ」

    「おそらく朝鮮南部から来た人たちが開いた集落で水田稲作と同時に慣例のような形で環濠も掘ったのではないかな」

たかや君「防備施設としては機能していない、飾りのようなものということですか。朝鮮半島ではそのようにして集落をつくっていたからという」

明人先生「この場合はそのように考えられる」

    「その次に古いのは神戸市の『大開遺跡』。前期前半の遺跡で長径70mの短径40m、溝の幅は約2m、深さ1.5mで断面はV字形と逆台形」

たかや君「あ、少し広くなってきましたね」

明人先生「前期末になると北部九州から濃尾平野までの西日本で水田稲作が定着してくるよ」

    「福岡県の『板付遺跡』は長径120m、短径100m幅1~5mで深さ1~2.5mで、断面はV字形」

    「京都府の『扇谷遺跡』は長径270m短径250m、最大幅6mで深さ4m」

たかや君「ああ、もうだめだ、ちょっと無理です」
     
    「やっぱり環濠で集落を守っているんですね、数字が実証しちゃってる」

たかや君「でも幅が広がっていくぶん、環濠で囲む広さも広くなっていきますね」

明人先生「よく気が付いたね。そうなんだ、そこにもう一つの“環濠”の意味があるんだよ」

    「吉野ケ里にも見えるけど“逆茂木”といって先をとがらせた杭を環濠の底やその周辺に埋め込むのは“防御”のためだよね」

    「水稲耕作によって食糧の確保と余剰生産物の誕生、集団作業の必要なども生んで、人々の集住というのが起こったんだ」

たかや君「人々が集まってくるということですか、ひとつのところに?」

明人先生「そういうこと、ムラの規模も大きくなるしそれがまた吸収・併合されて大きくなる」

たかや君「そしてクニになる」

明人先生「そう、その段階での“共同体”という意識の現れが“環濠”なのではないかと考えられるんだよ」

    「防御・防備というだけでなく境界のためといった方がいいかな」

    「中期の『朝日遺跡』(愛知県)は最も発達した防御施設をもった集落といわれ、環濠の他に柵列や逆茂木乱杭などで集落を二重三重に守っていた」

    「これなんかは本当にこの時代が戦乱の只中にいたことを象徴しているけど、それがずっと続くわけではなく、中期の後葉には変化していく」

    「そもそも負傷人骨などの調査から弥生時代で戦乱が頻発したとされているのは、前期後葉から中期前半」

    「つまり紀元前の2世紀から紀元前の1世紀ぐらいまでなんだ」
    
たかや君「先生、でも『吉野ケ里遺跡』はそれより後ですよね。大きな環濠に、先生がさっき言っていた逆茂木だってある」

    「周囲のムラなどを警戒してではないんですか?」

明人先生「奈良の『唐古・鍵遺跡』や佐賀の『吉野ケ里遺跡』は周辺に小さな集落をもつ拠点集落だ。常にあたりを警戒して、というような状態ではない」

    「思い出し欲しい、吉野ケ里や唐古・鍵の遺跡で環濠で囲まれた内側に何があったか」

    「権力を持ったもの、周囲に命令を下すような首長やその周辺の人々の居宅、祭祀を司る人たちの住まい、政治や祭祀に使われる建物」

    「それに金属器器などの工房もあったし、吉野ケ里では遠隔地との交流の場も設けられていた」

    「環濠はムラの中での区別の役割もあって二重三重に環濠帯が敷かれている。後期の北部九州や近畿地方の大きな遺跡によくみられるかたちだ」

    「『唐古・鍵遺跡』は中期中葉から続く遺跡だけど、3か所の居住域に大環濠が掘られている」

    「内側の環濠の幅は8m以上、それを囲むように幅4~5mの環濠がまた四重五重に敷かれている多重環濠だ」

たかや君「がっちり守られているって感じですよね。そこで生活する人にとっては安全が約束されているって風な」

明人先生「そういうこと」

    「それにね、環濠を掘る際に出た土を外側に盛り土として土塁を築いている事例があるそうなんだ」

たかや君「内側と外側ではどんな違いがあるんですか?」

明人先生「考えて見てごらん、外側に土塁があると侵入してくる敵にとっては高い位置になるから矢を放つにしても上からで、絶対に有利になる」
    
    「その証拠に中世の土塁は堀の内側に築かれている」

たかや君「それならぜんぜん防御というわけではないことになりますね」

明人先生「そうなんだ。環濠を掘るということは共同で行う大事業だよね」

    「共同体の結束を高めるとか、集団としての意識を明確にするという意味があったのではないかとという意見もでている」

    「ただこれについては時期や地域によってだいぶ状況は違ってくるので一概には言えない」

    「永く周辺と緊張状態が続いたところもあっただろうしね」

たかや君「“高地性集落”については、でも、高いところに逃げたという認識でいいんですよね」

明人先生「いや、これについても必ずしもそうとは言い切れないらしい。それはまた次の機会に説明することにしよう」

たかや君「是非、お願いします」

たかや君「先生、環濠の様子が見られるような所ってありますか?」

明人先生「『朝日遺跡』を見ることができるよ。“愛知県清洲貝殻山貝塚資料館”だ」

    「(株)東海交通事業城北線の“尾張星の宮駅”で下車、歩いて10分」

    「清須市あしがるバスで“ピアゴ清洲店前(清洲貝殻山貝塚資料館)”で降りれば歩いて5分だよ」

    「資料館には出土した遺物も展示されているし、ぜひ東海地方最大級の環濠集落を見てきてほしいな」

    「いつものようにHPで確認することを忘れないで」

たかや君「分かりました!了解です」


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