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弥生時代の暮らしーふつうの人々の生活

今や古本屋の店主となった正木明人先生は元小学校の教師。はたきを持つ手も軽やかにはたかれているのはセール中をラベルを張られたワゴンの中の本の山。

もと教え子のたかや君は中学に上がってもいまだに彼を先生と呼び慕ってやってきます。

たかや君「先生、こんにちは」

明人先生「やあ、たかや君こんにちは。何だい、今日は浮かない顔して」

たかや君「先生今日ね、ここ10年の暮らしの変化について学校で話し合っていたんです」

    「携帯電話とかスマホとか、ほら2020年には東京でオリンピックもあるでしょ。何だか目まぐるしいなって」

明人先生「若い君がそんなことを言っているのはおかしいなあ。それで元気がないのかい」

たかや君「いや、そうではなくて。弥生時代の人たちも目まぐるしかったのかなって」

    「だって、水田耕作ひとつをとっても身分制が出てきて階層分化が進んだんですよね。それに青銅器や鉄器も伝わって、隣のムラとも衝突するようになったりして」

明人先生「そうだね、縄文時代の1万年とくらべるとそういえるかもしれない。でも弥生時代だって約700年あるんだからね」

    「それでは今日は弥生時代のふつうの人々の暮らしがどう変化していったかをみてみようか」

たかや君「ありがとうございます。よろしくお願いします」


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たかや君「稲作が行われるようになってお米が食べられるようになると、随分と食生活は豊かになったんじゃないんですか?」

    「僕の印象では縄文時代だって十分豊かのようだったけど、なんといってもお米は主食だから」

明人先生「うん、確かにまずは大陸から北九州へと伝わった稲作は弥生時代中期には青森県まで伝播している」

    「中部地方の高地では少し遅れたけど、それも日照時間が短さからくる問題でいずれにしても列島の人々はお米を受け入れていったんだ」
   
    「でもね、それで主食となったかは疑問でね、お米が普通の人々の常食となったのは室町時代以降だという意見もある」

たかや君「ええ、そんなに遅くですか。また、どうして?」

明人先生「弥生時代でいえば、これまでの雑穀や堅果類にすっかり代わってしまうほどじつは収穫量は多くなかったといわれている」

    「北部九州など先進地域でもドングリなどで栄養補給していたし、そもそも食べ方として山菜や雑穀の粟やヒエと一緒に煮て食べていたらしい」

たかや君「それでは縄文時代とあまり変わりないですね。人々にとっては、ほぼ1年を通じての水田耕作という作業が加わった感じだ」

明人先生「食べ物ではコメの他にブタが大陸から持ち込まれたよ」

たかや君「ブタってイノシシの家畜化したものですよね。縄文時代のイノシシをブタにしたのじゃなくて?」

明人先生「家畜化されたものもあるらしいが、分析によると弥生ブタは大陸産という結果も出ている。それからイヌ」

たかや君「イヌうううう~!犬を食べるんですか?縄文時代には狩猟のお供として、一緒にお墓にも入っていたのに」

明人先生「そうだね、でもその後は続いていないようだから定着はしなかったのだろう」

    「漁撈の方も状況が変わったよ」

    「縄文時代には“縄文海進”といって沿岸部に良い漁場があって、関東地方では貝塚が発展した」

    「しかし縄文後期に入ると再び冷涼化が始まり“弥生海退”がおこる。関東地方の縄文型貝塚は弥生前期は消滅してしまうんだ」

たかや君「うわあ、海の幸に恵まれた日本のイメージではないですね」

明人先生「いやいや早まってはいけない。三浦半島など外洋漁撈は依然として健在で、マグロやカツオなどを獲っている」

    「それに潜水漁が行われるようになり、アワビやサザエなどが手に入るようになる。蛸壺漁や網漁も大陸から道具が入ってきて盛んになるんだ」

    「それだけじゃない。水田耕作の副産物と言おうか、淡水環境が生まれてタニシやフナやナマズ、ドジョウなどの淡水漁撈も行われる」

たかや君「何だか忙しくなってきましたね。それぞれの季節に応じて採集をしたり狩猟をしていた縄文人の暮らしとだいぶ違うような感じですけど」

明人先生「よく気が付いたね」
   
    「神奈川県の逗子市に『池子遺跡』という弥生中期の集落跡が発見された。稲作だけではなく外洋漁撈も行っていたという痕跡が確認されている」

    「銛を使う銛漁の他カツオなどの釣漁、それに網での網漁も行っていたということだ」

たかや君「大変じゃないですか。あっちもこっちもじゃ。ということは…」

明人先生「そう、農繁期と漁期が重なっていてもしっかり両方が成立しているということは、農耕をする人と漁撈に携わる人が別ということ」

    「つまり、農民と漁師の分化がみられるということだ」

たかや君「またひとつ複雑になってきた」

たかや君「それに先生、弥生時代には青銅器と鉄器も大陸や朝鮮半島から入ってきているんですよね」

    「それらは人々の生活にどのような変化をもたらしたのですか?」

明人先生「大陸から青銅器が伝えられたのはまず北部九州だ。そこから山陰地方や四国地方に分布していく。これらは“武器形青銅器”と呼ばれ、銅矛・銅剣・銅戈などだね」

たかや君「水田耕作で争いごとの種が生まれて武器も入ってくるなんて、縄文の人たちにとっては面食らっちゃいますね」

明人先生「まあ、そうともいえるが地域差もあるよ。短い間に変化が大きかったのは北部九州や山陰地方など西日本じゃないかな」

    「青銅器だけど最初は刃を研ぎ澄まして実用に使われたらしいが、とにかく特別なもので、所有者の権威を象徴するものとして副葬品などでみられるようになる」

    「鉄器が広まってくると実用の座は譲り、太く大きくなって専ら祭祀用だ」

    「畿内を中心に広まっていったのが銅鐸。こちらは最初から祭祀用として使用された。本来楽器で吊るして鳴らすものものだが、次第に大型化して見るだけのものとなるよ」

    「鏡も祭祀用だね。これらは伝えられるとそれほど間をおかずに列島で生産されるようになる」

たかや君「日本人の器用さは縄文時代からだから、当然ここでも発揮された」

明人先生「はは、そういうことかな」

    「金属を流し込む青銅の鋳型が発見されているけど、弥生時代の前期末から中期前半で多く見られるのは佐賀県の佐賀平野南西部」

    「中期後半までには舞台は、福岡県福岡市の『那珂・比恵遺跡群』や春日市の『須玖遺跡群』で移る」

    「生産の中心がどうして変わったのか興味の引くところだ」

たかや君「先生、それって何かの伏線ですか?」

明人先生「今のところは謎だ」

    「銅鐸の生産は、広まっていった近畿地方。ただ生産にしても流通にしても何かを指し示す証拠はまだ見つかっていない」

たかや君「先生、青銅器の生産もやっぱり専門とする人たちがいたということですよね」

明人先生「そういうことだね。それは鉄器についても同様で、北部九州で盛んに生産されていたということが確認されている」

    「後期には特に玄界灘沿岸地域の遺跡から大量の鉄器が出土しているということだ」

    「しかしそこよりも西、瀬戸内海地域や近畿地方にはその痕跡はごくわずかなんだ」

    「鉄を造るにはその素材がなければならないがそれは朝鮮半島から入手していた。つまり玄界灘沿岸地域が鉄素材入手ルートを独占したと考えられる」

    「鉄は最先端の利器だからね。このルートを手にしたものが優位に立てるとなると…」

たかや君「手に入れようと戦争だっておこっちゃいますね」

明人先生「鉄器は武器として多くは作られたが、一方では鋤先や鎌など農具にも使われたから農作業はだいぶ楽になったんじゃないかな」

たかや君「武器にもなるし、便利な道具にもなる。うう~ん、考えされられます」

たかや君「先生、こうしてみると水田耕作だけでなく青銅器や鉄器など“もの”が入ってきたことによっても人々の様子はすごく変わりましたね」

    「弥生時代は激変の時代ですよ、やっぱり!」

    「こういったことが見て取れるような所って、先生ありますか?」

明人先生「そうだなあ、山陰地方の様子も見るとして“出雲弥生の森博物館”があるよ」

    「JR山陰本線の`出雲市駅’で下車して一畑電車に乗り換え`大津町’下車。そこから徒歩では約20分」

    「三刀屋行のバスに乗ると`出雲弥生の森博物館前’降車ですぐだよ。詳しいことはHP.で確認するといい」

    「近くに“西谷墳墓群史跡公園”もあるから一緒に見学してきてごらん」

たかや君「出雲かあ、出雲大社のところですよね。行ってきます!」


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