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弥生時代の建物

はるか南米の空気をも連れてきたような珈琲のふくいくたる香りが店内に満ちるころ。閉じられた本のページが静かに息をして止まっていた時間が再び動き出しました。

ズズズズズズ―。

元小学校の先生で今は古本屋の主である元木明人先生が恐る恐る熱いカップの縁に口を近づた時。

重い扉がギギーとなったかと思うと刺すような冷たい風とともに入ってきたのは一人の少年。

老舗の古本屋には不釣り合いな制服姿、弾むようなその足取りは元教え子のたかや君です。

好奇心いっぱいの彼はいつも疑問がいっぱい。今日もお気に入りの先生に何かを聞きに来ましたよ。

たかや君「先生こんにちは」

明人先生「やあこんにちは、たかや君、また来たね。今日は何だい」

たかや君「今日は建物について聞きにきました。弥生時代ってなんだかずいぶん様子が変わっちゃったでしょう」

    「水田耕作や金属器が大陸や朝鮮半島から入ってきて、先生は前に社会全体が変わったって言ってましたよね」

    「それなら建物も縄文時代とは変わったのかなと思って」

明人先生「そうだね。コメ作りで食糧が安定的に供給されるようになると、今度はそれを守ることに注意が注がれるんだ」

    「それでは今日は弥生時代の建物について見ていこう」

たかや君「お願いします」


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明人先生「今言ったように水田耕作によって人々の生活は一変する。まず、長い作業の末に確保したお米を蓄えておかなくてはいけない」

たかや君「一度に食べられない量ですもんね」

明人先生「今と比べたら労力に対する収穫量はわずかであるかもしれないが、とにかく貴重なお米だよね。しっかりと貯蔵しなけらばいけない」

たかや君「そこで倉庫が必要になる」

明人先生「そういうこと。発掘調査では平面として出てくるから何が倉庫なのかわからない」

    「そこで規則的に比較的深く掘られた柱穴が確認されたものを“掘立柱建物”として認識する」

    「想定される規模も住居より大きな感じかな」

    「床のあるものを“高床式建物”床のないものを“平地式建物”で“平地式建物”の方が数は少ない」

たかや君「どちらが倉庫として使われたんですか?それにやっぱり住居との違いがよく分からないです」

明人先生「お米だからね、乾燥していなくてはダメなので、“高床式建物”の方を倉庫として使用していたといわれている」

たかや君「あ、分かった!“高床倉庫”ですね。確か授業で聞いたような」

明人先生「おいおい忘れちゃったのかい。ちゃんと言ったはずだよ」

    「高床式の方が比較的柱穴が大きく深いのでそう考えられているけど平地式が倉庫に使われなかったという証拠もない」

    「住居との相違は生活跡だ。土器などが残されていることが多いし、そもそも住居には“炉”がある」

たかや君「“掘立柱建物”は倉庫の他にどのような使われ方をしたんですか」

明人先生「“物見やぐら”が考えられる」

    「弥生時代になると水の権利をめぐってや収穫したばかりのお米や鉄製品などの争奪戦などで衝突があったと想定される」

    「縄文時代にも『三内丸山遺跡』には大型の掘立柱建物があったね。高床式で“物見やぐら”ではないかと考えられている」

たかや君「敵の監視ですか?」

明人先生「いや、こちらは平和的なもので海の様子などを見ていたんじゃないかな」

たかや君「住居の方はどうでしょう」

明人先生「縄文時代には竪穴住居だったよね。弥生時代になってからもそれは変わらない」

    「平面形態は円形や方形から長方形や隅丸方形など変化もあるが地域によって様々。後に長方形へと統一されていくようだけどね」

    「そもそも関東・中部地方以北では庶民は平安時代くらいまで竪穴住居に住んでいたといわれている」

たかや君「わあー、そんなー、京都では十二単を着ていた時ですよね」

明人先生「そうなるかな。近畿地方では飛鳥時代までだから、確かに地域によって随分と違っているね」

たかや君「近畿地方では飛鳥時代からどうなるんですか?」

明人先生「掘立柱建物に移行する。で、弥生時代も身分の高い人たちは掘立柱建物に住んでいたのではないかと推察されるんだ」

たかや君「どうしてそう考えるんですか?」

明人先生「『吉野ケ里遺跡』の発見でね、“主祭殿”や“東祭殿”や“斎堂”など、これまでは異なる明確な意味を持った建物が確認されたんだ」

たかや君「それぞれどういう意味ですか」

明人先生「“主祭殿”は遺跡内の中で最も大きな建物だよ。クニの重要な会議や祭りごとに使われたと考えられている」

    「“東祭殿”は太陽の動きを知るための建物だったと考えられている。夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上にこの建物が位置しているということだよ」

たかや君「なんだか急に科学的になりましたが」

明人先生「うん、大陸の進んだ文化が入ってきたことをうかがわせるね」

    「ということで“東祭殿”では季節ごとのお祭りが行われたのではないかと推定されている」

    「“斎堂”は東祭殿と主祭殿の間に位置していることから祭りの前に身を清める場所、祭りの道具を保管する場所とみなされてる」

たかや君「でも先生、どうしてそのための建物だと分かったんですか?」

明人先生「それぞれの建物同士の位置や配置や規模などからの推測だよ。古代の中国などの史料や他の高床建物なども参考にしている」

    「最も参考にしたとされているのが『唐古・鍵遺跡』出土の土器だ」

たかや君「土器から?」

明人先生「そう、その土器には絵がかいてあったんだ」

    「『唐古・鍵遺跡』は弥生時代を通じて発展した大規模な環濠集落で、青銅器の鋳造炉の工房跡が確認されているし銅鐸の製造地だとみられている」

たかや君「どこにあるんですか?」

明人先生「奈良県だよ」

たかや君「奈良県って北九州と同じように邪馬台国があった場所として有力な所ですよね」

明人先生「そうだね、何だか関連があるのではないかと想像できるが、とにかく、そこで出土された土器に、何と多層式の建物が描かれていた」

    「『吉野ケ里遺跡』の掘立柱建物(主祭殿や東祭殿)はそれが実在したことを証明したことになったんだ」

    「それに“物見やぐら”の方ではこれまで鎌倉時代からと考えられていた“貫”という建築技法が使われていたのではないかとみられている」

たかや君「何ですか“貫”って?」

明人先生「柱の中心に穴をあけてそこに柱を通す技法だよ。島根県の『上小紋遺跡』で中心に穴が空いた柱が見つかってね」

    「釘のない時代、ひもで縛ったぐらいでは上を支えきれないのでこの技法が使われたのではと考えられているんだよ」

たかや君「すごいですね。竪穴住居と比べると一挙に発展した感じがします」

明人先生「でもね、思い出してほしいんだが『三内丸山遺跡』でも大型の掘立柱建物や大型の竪穴住居があったんだ」

たかや君「先生は大陸や朝鮮半島から来た人たちによってすべてがすぐに変わっていったとは考えていないんですね」

明人先生「うん、素地はでき上っていた、そう考えたいな」

たかや君「僕もそう考えたいです」

たかや君「ところで先生、その多層式の建物が描かれていた土器って見ることは可能ですか?」

明人先生「土器だけでなく復元したものも見ることができるよ。土器は“唐古・鍵ミュージアム”で建物は“唐古・鍵遺跡”の中だ」

    「大阪方面からは近鉄奈良線で≪大和西大寺駅≫、あるいは近鉄大阪線を使い≪大和八木駅≫で近鉄橿原線に乗り換えて≪田原本駅≫下車、歩いて約20分」

    「京都からなら近鉄京都駅から近鉄京都線で橿原神宮前行き急行に乗車して、西大寺駅経由で≪田原本駅≫下車、同じく徒歩20分だよ」

    「遺跡の方は、近鉄橿原線で≪石見駅≫で下車 東へ歩いて約20分だ。どちらもちょっと歩くけど見ごたえはあると思うよ」

    「HPをみることは忘れないで」

たかや君「了解です!しっかり歩いて見てきます!」


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