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弥生時代、佐賀県の遺跡といえば吉野ケ里遺跡!

小学校の教師をしていた正木明人先生。父親の突然の「もう仕事飽きた」という宣言によってやむなく学校を引退、古書店主になりました。

たかや君は当時の教え子で今は中学1年生。家が近いこともあって今日も遊びに来ています。

たかや君「先生、こんにちは!」

明人先生「やあ、いらっしゃい、こんにちは。しかしたかや君、もう半年も立っているんだから“先生”はないよ」

たかや君「でも他にどう呼べばいいのかわかりません。名前に“さん”づけは恥ずかしいし、“おじさん”は絶対無理でしょ!」

明人先生「まあ、しようがないか。で、今日は何?」

たかや君「あの、友達が休みの日に家族で『吉野ケ里遺跡』に行ってきたんだそうです。とにかくすごかったって言ってるんですけど、何がそんなにすごいんですか?」

明人先生「ああ『吉野ケ里遺跡』ね。友達はいいもの見てきたんだねこの遺跡は弥生時代の遺跡としては最大級のもので大発見だよ」

たかや君「弥生時代なのか。縄文時代のものには『三内丸山遺跡』がありましたよね」

明人先生「それぞれの時代の代表的な遺跡で、『三内丸山遺跡』の方は平成の大発見。『吉野ケ里遺跡』の本格的な調査は1989年だからちょっと早いな」

    「『三内丸山遺跡』は縄文時代のイメージを一変させ、『吉野ケ里遺跡』は日本の最初の“クニ”のイメージを明らかにしたんだ」

たかや君「どういうことですか?」

明人先生「縄文時代というのはまだ狩猟採集の段階だと思っていたが、三内丸山で実は長期間にそれも多くの人々が定住していた痕跡を見つけた」

    「それにクリをはじめエゴマやヒョウタンなどの栽培もしていた」

    「一方、弥生時代は水田耕作による定住、それに環濠集落や高地性集落のイメージはできていたけど、あんなに大規模な集落跡にはびっくりしたし色々な充実した施設がしっかりと残っていたんだ」

たかや君「そっかあ、ねえ先生、今日は吉野ケ里遺跡のこともっと教えてくれますか」

明人先生「了解!」


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明人先生「まずは弥生時代についてざっと見ておこう」

    「弥生時代が縄文時代の後に来ることは誰もが知っているよね。でも弥生時代がいつから始まるかは難しい」

たかや君「弥生土器が使われだした時、それに水田耕作や青銅器・鉄器の利用からじゃないんですか?」

明人先生「うん、確かにそうなんだけど、でも最近の調査では水稲耕作の時期が早まっていてね、佐賀県の『菜畑遺跡』は縄文晩期の遺構だけどすでに水稲耕作の跡が発見されている」
     
    「土器などの使用も地域によってだいぶ違う。さあここから“弥生時代”とは言えない。研究者の間でも意見が分かれているんだよ」

    「ただ以前よりはずっと早くなっているということは一致していて4つに区分されている」

    「紀元前5世紀半ばごろからが早期、前期は紀元前3世紀ごろから、中期は紀元前1世紀ごろからで、後期は紀元後の1世紀半ばから3世紀半ばごろまで」

    「縄文時代が約1万年続いたのに対して、弥生時代は約700年間だよ」

たかや君「ふ~ん、古墳時代との間に挟まって、何か大変な時代って感じ。それで『吉野ケ里遺跡』の方は?」    

明人先生「『吉野ヶ里遺跡』は実は縄文時代からはじまる。大集落だけに一度にはできあがらない」

    「集落が形成され大規模化していくのが紀元前4世紀。最初ムラだったものが大きくなっていき前期には南の方にまず環濠ができる」

    「青銅器鋳造のためのふいごの羽口や取り瓶が出土しているので、もうこのころには大陸から青銅器がもたらされているんだね」

    「吉野ヶ里丘陵を一周する環濠ができるのは中期になってから。このころの他の遺構としては首長を埋葬したと思われる大型の墳丘墓がある」

たかや君「墳丘墓って何ですか?」

明人先生「縄文時代は土坑墓といって穴をあけてそこに遺体を納め土をかぶせたわけだけど、上に土や石を積み上げてこんもりと丘にしたお墓のことだ」

    「それから甕棺の集団墓地。2500基以上の甕棺が2列に約600mわたって並べられているそうだよ」

たかや君「一方は目立つ大きなお墓で他方は集団墓地。随分と格差があるんですね」

    「縄文時代には身分の差なんてなかったけど弥生時代に入ると歴然としてくる。それに縄文時代は小規模だけど居住区とお墓が接近していていましたよね」

明人先生「そうだね、水稲耕作が集団を率いるリーダーを生むわけだけど、集団が大きくなればなるほどそのリーダー、つまり首長の力は強くなる」

    「お墓など墓制についても戦さが頻繁に起こるような状況とか、大陸や朝鮮半島の習慣などが影響を与えているんじゃないかな」

    「防御が厳重になってくるのもこのころ。争いが激しさを増していったんだ」

    「また、墓地だけでなく倉庫域とも区別されているそうだから、何か集落やムラという呼び名ではしっくりこない」

    「何か人工的な意図とか計画に基づいて建設されているということが感じられる」

    「それだけじゃない。船形の木製品が出土しているんだけどどうやらその船は外洋船ではないかということだ」

たかや君「うう~ん、何だかすごいことになってきた、頭がパンクしそう。縄文ののんびりムードと全然違う!」

    「で、これでお終いじゃないんですよね」

明人先生「そうだよこれからが本番」

明人先生「後期には環濠はさらに拡大して二重になり、建物も巨大化する。集落の最盛期は3世紀で北と南、二つの郭ができあがるんだ」

たかや君「“郭”ってなんですか?」

明人先生「二つの異なる“空間”だよ」

    「北内郭は“まつりごと”を行う最も重要な場だと推定されている」
  
    「大きな祭殿があり、田植えや稲刈り、収穫祭などのお祭りの日程を決めたり、祖先をまつる儀式の日取りなど」

    「また他の集落(あるいは“クニ”?)や海外との市の日程も決めたらしい」
    
たかや君「決めるって話し合いですか?」

明人先生「いや、先祖の霊とか当時信じられていた神の声を聴くシャーマン的な人がいた。つまり最高司祭者が存在して最後の決定権を持っていたんだ」
     
    「祭壇や祭祀の場と認められるようなものもあるというからすごいね」
    
    「南内郭は王をはじめ政治行政をを司る高い身分の人々が住む“居住区”。周囲を環濠と城柵で囲み、物見櫓という監視塔であり吉野ケ里のシンボルがある」

    「北内郭と異なり竪穴住居の跡や当時は身分の高い人しか持ちえない鉄器が多数出土しているのでそう考えられている」

たかや君「先生、さっき“市”って言ってましたけど大規模なんですか?」

明人先生「青銅器や鉄器をはじめ木製品や織物などを対象としていたらしい。西方に厳重に濠で囲まれた高床式倉庫群が見つかっているんだ」

    「各地から集められた特産物などが収められたと推測される」

    「古代中国の市の様子と構造が似ているということからここで市が開かれたとみられている」

    「そばには川もあり舟で乗り付けるようになっているというのもその根拠だよ」

たかや君「何だかこれだけで“都市”って感じなんですけど」

明人先生「そうだね、吉野ケ里は“クニ”の重要な“トシ”だったんじゃないかな。周囲の様子も確認しなくてはいけないけど、壮大なものだよ」

    「広さはあの三内丸山遺跡が約38ヘクタールなのに対して54ヘクタールもある。その後のクニの姿を吉野ヶ里にみることも出来るじゃないかな」

たかや君「『吉野ケ里遺跡』にはどう行ったらいいんですか?」

明人先生「今は“吉野ヶ里歴史公園”となっていてね」

    「二重の環濠だけでなく、竪穴住居や高床住居、シンボルの物見櫓や逆茂木、墳丘墓や高床式倉庫が復元されている」

    「JR長崎本線吉野ヶ里公園駅からでは東口に、JR長崎本線神崎駅を使うと西口に行くよ」

    「西鉄天神大牟田線西鉄久留米駅や鹿児島本線久留米駅からだとバスを使って田手バス停で下車」

    「福岡空港からも便利で、吉野ヶ里歴史公園経由佐賀第二合同庁舎行きで一日1往復高速バスが出ていて、吉野ヶ里歴史公園で下車すればいい」

    「とにかく広いから時間に余裕を持ってゆっくり観てきて欲しいな」

たかや君「このクニの最初をしっかり観てきます」


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