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古墳時代後期

夏休みの自由課題は博物館で行われる遺跡発掘の体験学習に決めたコースケ君。

田野倉先生に報告しようとがらんとした校舎内をうろうろ。やっと見つけたところは図書室でした。

冷房の効いた室内はひとつのクラスが集まったかと思うほどの混雑で、“静粛に!”の貼り紙もなんのそのの盛況ぶり。

ひときわ司書の先生の眉間のしわを深くしているのは大いびきで寝ている田野倉先生でした。

“まったくもう”という声にならない声と鋭い視線を背中に受けながらようやく歴史部部室に先生を連れてきたコースケ君。

窓の外では野球部顧問の先生が、麦茶と氷の入った大やかんをひっくり返し全身びしょ濡れになった山田君に、なぜか保健室行きを命じているところ。

コースケ君「ところで先生、古墳時代で僕が最初に問に思っていたことがまだ解決されていないようなんですけど、覚えてますか?」

     「前方後円墳は何故造られるようになり、そして何故造られないようになっていったのか?」

     「何故造られるようになったのかは分かりましたが終わりがまだはっきりしません」

     「先生、何故古墳は造られなくなったんでしょうか?」

田野倉先生「そうだった。その問題が残っていたね。では、今回は古墳時代の後期について話していこう」

コースケ君「よろしくお願いします」

田野倉先生「まずコースケ君、前方後円墳の始まりはどんなだったかな?」

コースケ君「地域の国々を束ねるような連合国家の長、邪馬台国の首長よりももっと大きな力が存在するようになったんですよね」

     「奈良盆地に始まり河内へと移ってさらに巨大な前方後円墳が造られるようになる」

     「それは朝鮮半島へ進出してこれまでにない権力と財力を手に入れたと考えられました」

田野倉先生「半島の人々との争いの中で列島側でも統合せざるを得なくなった。あるいは統合することで半島と互角に戦えるようになったんだ」

コースケ君「そしてヤマト王権の拡張に伴いその王権下に入った国の首長が次々に前方後円墳を築造していくんですよね」

     「独特な形だから仲間意識のようなものを強制したのかな、と僕は感じましたけど」

     「それにそういうことを指示するヤマト王権のリーダー、つまり大王の個性がすごく強いというか」

田野倉先生「指示したのかただ許可したのかどうかは分からないけどね。でもなかなか面白い指摘だ」

     「確かに『日本書紀』の記述などを見ると個性的な天皇が並んでいる。中国の聖人君子とは大きく違うところがユニークだよね」

     「古墳時代の後期というのは、だいたい6世紀から7世紀だよ。ヤマトから大和へ、6世紀の終わりから7世紀はもう飛鳥時代だ」

     「聖徳太子が出てきて冠位十二階と憲法十二条を制定し遣隋使を送っているよ」

コースケ君「前方後円墳はどうなっていくんですか?」

田野倉先生「巨大古墳は全体としてはもう造られなくなる」

     「規模は小さくなっていく代わりに一か所にたくさんの古墳がある“群集墳”が各地にできてくるよ」

     「これは地域の大小豪族の首長だけでなく、ごく一般の人までも財力により古墳を造るようになった結果だといわれている」

コースケ君「権力を誇る建築物からふつうの”お墓”になっていったということですか?」

田野倉先生「葬送の仕方が変わってきたということだろうか」

     「前方後円墳は列島の各地に広まり、現在約4800基が確認されている」

コースケ君「そんなにたくさん!」

田野倉先生「存在が明確でないといわれているのは、わずかに北海道と青森・秋田・沖縄の4道県にすぎないそうだ。千葉県が約720基で一番多いんだよ」

コースケ君「へええ~、なんか意外です」

田野倉先生「大きな前方後円墳のある近畿地方や宮崎地方では、そのまわりに小さな前方後円墳や円墳や方墳が寄り添うように配置されて”古墳群”を形成している」

コースケ君「家族や一族ですかね。前方後円墳はやはり一番偉い人なんだ」

     「でもそれに円墳や方墳もあるということは差別化もされているけど、形として当時はこれもこれもいいよという感じなんでしょうか」

田野倉先生「前方後円墳というのはもともと石棺を納めた後円部に埋葬儀礼などを行ったと考えられている前方部がくっついたものという説がある」

     「時代が下ると前方部にも埋葬が確認されているから、あまり違和感はなかったんじゃないかな」

     「方墳は弥生時代の方形周溝墓があるし、円墳は古墳時代を通じてずっと造られている」

     「分布では前方後円墳に限って言うと、100m以上の墳丘長を持つ大きなものは九州や尾張を除くと奈良盆地内や”古市古墳群”など近畿に集中する」

     「九州の”岩戸山古墳”は約135mで九州北部で最大規模、尾張の”断夫山古墳”は約150mで美濃・尾張地方で最大級の古墳だよ」

コースケ君「後期に入って九州北部、尾張地方の最大級が出てくるんですね」

田野倉先生「そうだね。これら二つの古墳と近畿地方の大王の墓と目される古墳は、他を圧倒しその規模の格差は著しい」

     「近畿地方、奈良県橿原市の”見瀬丸山古墳”は全長318m、奈良県最大で全国でも6位の大きさを誇る。もちろん後期後半に築造されたものの中では最大だ」

コースケ君「どの天皇の陵墓ですか?」

田野倉先生「横穴式の石室で第29代欽明天皇とその妃堅塩媛(きたしひめ)の二人かと推測されているが、確かなことは分かっていない」

     「他にも第21代雄略天皇の御陵かもしれないとされている”河内大塚山古墳”は墳丘長335mで、全国第5位。横穴式石室で埴輪は出土していない」

     「この格差の拡大は当時の社会体制の変化を表していると考えられていて、大王への権力集中が始まったと推定されている」

コースケ君「各地の豪族=国の首長が、その権勢を見せつけて造った時代は過ぎたということですね」

     「近畿地方の大王と地方の力を持った数少ない豪族、そしてそれほどでもないけど古墳は造れるくらいの首長や普通の人が大勢、という構図」

田野倉先生「まあ、そういうふうにいえるだろう」

田野倉先生「それとまだあるんだ」

     「さっきの”見瀬丸山古墳”など、この後期も後半の大王陵について言えば、3世紀からこれまでの古墳群とはちょっと離れた位置に造られている」

     「どうも大王の権力構造に変化が現れてきたことを示しているのではないかという見方があるよ」

コースケ君「先生が先ほど言っていた”他を圧して”ということにも当てはまるんですね。何が決定的に変わったんでしょう?」

田野倉先生「王朝が交替したということも考えられるけど、”大王”という存在が抜きん出て別格のものになっていったということがいえる」

     「5世紀の中ごろからヤマト王権の支配体制が確立していくんだ。”氏姓制度”って聞いたことあるよね」

コースケ君「あ、この間授業でやりましたよ。急に”制度”なんて出てくるからびっくりしました。大臣や大連なんかですよね」

田野倉先生「政権を維持するためのシステムというのはおそらく邪馬台国の時代からあったと思う」

     「でも、血族集団=氏を、身分の序列に従って定めた=姓と組み合わせた”氏姓制度”は画期的だったんじゃないかな」

     「大和政権との関わり方でどんどん複雑化し大きくなっていったと推察される。周辺から始まって地方へと拡大する中で豪族らを取り込みやすい」

     「一方でこのシステムに抵抗するものに対しては武力でもって向かっていった」

コースケ君「そういう役割がもうできていたということですか?」

田野倉先生「そうなんだ、物部氏や大伴氏が制圧したといわれている」

コースケ君「大王は軍事的なリーダーとして突出しているだけじゃなく政治的にも首長として優れていなければならないわけですね」

     「まあ考えてみれば当たり前のことだけど、それが要求されるというか」

田野倉先生「さらに、それぞれの地域=国の首長を束ねるということは、彼らが崇拝する部族の神々をも束ねることも意味する」

     「大和王権の首長=大王の部族神は彼らの神々の上に立つ存在でなければならない」

     「そして大王は“現人神”としてその頂点に立つ役割を担うようになっていくんだ」

コースケ君「古事記』や『日本書紀』というのはその結集されたものなんですね」

     「日本神話は大和王権の正当性を示すだけでなく、大王を中心に王権を築いた豪族たちの正当性も示しているということなんだ」

田野倉先生「“記紀”の編纂は国家としての威信だけではなく、王権そのものの存在に対する各方面からの圧力に対応してのことだったのではないかと思う」

     「中国の歴史書に倣って日本でもということになったと推測されるけど、天孫降臨に基づく大王だけでなく周辺の豪族も含めての神話体系は意味深い」

コースケ君「どんな風に描かれているんですか?」

田野倉先生「物部氏は大和国、河内国あたりの豪族だけど、神武天皇よりも前に大和に入ったとされる饒速日命(にぎはやひのみこと)が祖先」

     「大伴氏は、天孫降臨の際に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫ということになっている」

コースケ君「わあ~すごいですね。立派な先祖様がいて大王とつながっているということですね」

     「古墳時代の後期というのは、そういう大和王権の形が政治的にも精神的にも出来上がっていく時期ということか」
      

田野倉先生「ところで、古墳時代の中期に”装飾古墳”というのが出てきたのを覚えているかい」

コースケ君「ええ、九州でたくさん造られたんですよね」

田野倉先生「そう。装飾自体は古墳時時代の初期から施されていたということだけどね浮き彫りの彫刻が主流で色は魔除けと考えられる赤だけだった」

     「それが中期5世紀に入ると”装飾古墳”として石棺の蓋や内側・外側だけでなく石室の壁面に装飾が施されるようになる。彫刻に様々な色を塗ったりしてね」

     「横穴式石室になるので、作業は楽になったのではないかな」

     「そして6世紀、古墳時代の後期に入ると、浮き彫りの彫刻はなくなり色だけで文様を描くようになる。石室全体に描かれた様子は圧巻のひとことだ」

コースケ君「僕見に行きましたよ。これが日本人の手によるものかなとちょっとびっくりしました」

     「まるでメキシコとか中南米の人たちのもののように色彩が鮮やかで模様が大胆だった」

田野倉先生「そうなんだ。私たちは高松塚古墳やキトラ古墳といった”壁画古墳”でその色彩の豊かさに驚嘆するけど”装飾古墳”もすばらしいね」

     「文様は幾何学的なものや抽象的なもの蕨手文や菱形文など様々だが、意味は今のところ分かっていないということだよ」

     「図柄は楯や甲冑、刀や靭(矢を入れて背負う携行の箱)、船などの武器や武具など軍事的リーダーを表すものが多いね」

     「他に、人物・馬・鳥・ヒキガエルや朱雀といったところは、多分に大陸の影響を受けた感じだ」

コースケ君「規模は小さくなってきているけど内部は派手ですね」

田野倉先生「中期の超巨大な大王級の陵墓がどうなっているのか分かればもう少し傾向が鮮明になると思うんだけどな」

     「中期までの前方後円墳は巨大で画一的だけど、きれいに葺石がされて高い円筒埴輪や大小さまざまな人物埴輪・動物埴輪が並び壮観だったといわれている」

     「でも、後期の前方後円墳は葺石も敷かれなくなり墳丘の段差も3段から2段に減少、関東地方を除いては埴輪も置かれなくなるが内部は色鮮やかで個性的だ」

コースケ君「見た感じがずいぶん変わりますね」

田野倉先生「地味になっていく前方後円墳とは裏腹に、大王の権力は以前にも増して強大になっていくよ」

     「見た目重視の巨大壮麗な前方後円墳に代わって内部に注意が払われるのは興味深い」
     
     「装飾が大陸などの影響だといってしまえばそれまでだけど、普段見えないところに凝る、それも大和王権から離れた九州に多いというのは何か意味があるかもしれない」

コースケ君「ところで先生、ここまで来て前方後円墳の規模が小さくなったり、内部の石室に凝る装飾古墳が出てくるのは分かりました」

     「でも、何故造られなくなっていったかがまだわからないんですが」

田野倉先生「ああ、ごめん、ごめん。それは簡単なんだ」

     「大化2年というから646年のことなんだけど“薄葬令”というのが出された」

     「身分に応じて墳墓の大きさなどが規定されたもので、これによって前方後円墳など大きな墳墓は造られなくなっていく。実質的な古墳時代の終わりだ」

コースケ君「わあーあっけない。先生最初から知っていましたね。僕が何でだろうってずーと考えている間」

田野倉先生「まあそうだけど、いやいや。で、“大化2年”で何か浮かばないかい?」

コースケ君「あ、“大化の改新”ですか?確か“公地公民”の制度ができたんですよね。そうか!勝手に大きなお墓なんか造れなくなったんだ」

田野倉先生「薄葬令によって一番困ったのは地方の豪族たちだっただろう。なんといっても自分の権力を示す象徴と言えるものだったはずだからね」

コースケ君「それを禁止しちゃうということはどういうことですか?」

田野倉先生「やはり中央集権化ということなんだろうね。天皇に権力を集中させる。地方で威張っている者に対してにらみを利かすというか」

     「陵墓の中には確かに薄葬に従っているものもあればそうでないものもあるそうだよ」

コースケ君「天皇に関しては例外ということですね、なるほど~」

田野倉先生「それと仏教が日本に入ってきて、それまで土葬であった埋葬の仕方に火葬という方法も加わったんだ」

     「火葬だと敢えて大きな墳墓を造る必要はないよね」

     「持統天皇は703年に崩御しているけど、薄葬で天皇としては初めて火葬され夫である天武天皇のお墓に合葬されている」

コースケ君「古墳時代や前方後円墳といっても、出現期から比べるとすごく様変わりするんですね」

     「はじめは卑弥呼の墓がどれかなどど言っていたのが、後期には大和王権とか中央集権化ですから、大変な変化です」

コースケ君「先生、前方後円墳を外から見ることはできますが、古墳時代についてよくわかるような博物館はありますか?」

田野倉先生「“近つ飛鳥博物館”というのがあるよ。“飛鳥”といっても大阪府立の博物館だ。大仙古墳の模型なども見られる」

     「なんといって“古市古墳群”や“百舌鳥古墳群”がある大阪府だからね、古墳について色々なことが分かるんじゃないかな」

     「アクセスは、新幹線の新大阪駅から地下鉄御堂筋線に乗り≪天王寺あべの橋≫で下車、そこから近鉄南大阪線に乗り換えて≪古市≫で下車」

     「さらに近鉄長野線で≪喜志≫で降りて、金剛バス阪南線に乗って≪阪南ネオポリス≫バス停で下車すれば、その前が“風土記の丘”入口」

     「博物館まではそこから徒歩約8分だよ」

     「近鉄長野線≪富田林≫からは金剛バス石川線に乗って≪阪南ネオポリス≫バス停下車だ」

     「実際の古墳とともに貴重な史料も見てくるといいよ。HPを確認することを忘れないで。展示など期日限定のものもあるしね」

コースケ君「分かりました」


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