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古墳時代中期

いずこの砂漠かとみまごうほどの砂嵐、グラウンドのあちこちで起きては消え起きては消え。地区予選に向けて野球部の練習にも熱が入ります。

今日の山田君は先輩に言われダッシュで持ってきたボール3つ、どうやら間違えたようで頭を一つ小突かれていました。おいおいそれはソフトボールだろ!

夏休みを前にしてすでに真っ黒に日焼けした顔に白い歯がまぶしく坊主の頭からは滝のような汗が滴ります。

3階の窓から双眼鏡のレンズ越しに部員一人一人の動静を見てはいちいち解説を付けて笑っていた田野倉先生

暗い部屋の奥からコースケ君の声が呼びかけました。

コースケ君「先生遊んでないで手伝ってくださいよ冊子にどの写真を選ぶかまだ決まってません」

田野倉先生「ああ、すまんすまん」

コースケ君「ところで先生、古墳時代について色々聞いてきましたけどまだ途中までだったような気がしますが」

     「古墳時代は4つに時期区分できるんでしたよね。確か、まだ出現期と初期までだったような気が」

田野倉先生「そうだった。中途半端ではいけないなあ。では今回はその続き、中期について見ていこう」


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田野倉先生「3世紀半ば過ぎ、出現期はまだ前方後円墳として形が定まっていない」

     「方墳に当たる部分が”撥型”になっていたり濠で囲まれていないものもあり、”埴輪”も”葺石”の置き方も一定ではなかった」

コースケ君「卑弥呼の墓ではないかと考えられている”石塚山古墳”(福岡県京都郡)がその部類でしたよね」

田野倉先生「そう。そして3世紀後半の初期。西日本各地に”埴輪”の原型といわれる特殊壺型土器や器台形土器を伴った墳丘墓ができる」

     「その後、前方後円墳の先駆けといわれる円墳や出雲地方の四隅突出型墳から変化した方墳があって、奈良盆地に大型の前方後円墳が出てくるんだ」

     「大王陵クラスのものが集中して建設された。埋葬施設は竪穴式石室で副葬品は祭祀に使われる呪術的な鏡や玉などが多かった」

コースケ君「”箸墓古墳”(奈良県桜井市)も同様に卑弥呼の墓候補でした」

田野倉先生「この頃になると円筒埴輪が盛んにつくられるようになってくる」

     「畿内では土師器が作られ各地に普及、埴輪は器材埴輪や家形埴輪といったみんながよく知っている埴輪が現れる」

コースケ君「”土師器”って何でしたっけ?」

田野倉先生「弥生土器の技法の延長線上にある土器で、奈良・平安時代まで生産された素焼きの土器だよ」

     「焼成温度が800度~900度と低く同時期に出てきた”須恵器”に比べるともろいかな」

     「祭器にも使われ埴輪も土師器だけど、どちらかというと日常食器としての使われ方が主な土器だ」

     「で、いよいよ”中期”、だいたい4世紀末から5世紀だ」

     「何でもさらに大型になって台地や丘陵など見た目に高いところだけではなく平地に大規模に定型化された前方後円墳が造られるんだ」

     「5世紀の初め、大王陵クラスの大型前方後円墳は奈良盆地から河内平野に移っていく」

コースケ君「え、何故ですか?ヤマト王権って奈良盆地でしょ?」

田野倉先生「うん、そこなんだ」

     「古墳時代の土器として土師器の他に”須恵器”というものがあるんだけど、朝鮮半島の南部、伽耶が起源だといわれている」

     「土師器に比べて1100度以上と高温で焼成するために青灰色の硬質なのが特徴だよ」

     「そのために珍重され、ヤマト王権管理のもと同じ規格で生産統御されるようになるんだ」

     「5世紀の中ごろに大阪や福岡で伽耶系の人たちによってつくられたのが最古で、そのうち最大のものが”大阪府の陶邑窯跡群”」

     「そこはね、これから紹介するけど、大王の陵墓を含む”百舌鳥古墳群”ととっても近いんだ」

コースケ君「それでは窯元の近くに陵墓を造ったということですか?ちょっと本末転倒な気がしますが」

     「普通なら陵墓候補地の所に窯元を造るんじゃないんですかね」

田野倉先生「そうだよね。ただこの陶邑の工人さんたちが渡来人ということを考えると港に近いところに集団で住んでいたという推測も成り立つ」

コースケ君「あ、そうかそうですよね。奈良盆地は奥まったところにあるし」

田野倉先生「でももう一つ解釈があるんだ、コースケ君の言っていること理にかなっているとしたら、それは陵墓の主の系統が異なるということだ」

コースケ君「え、どういうことですか?」

田野倉先生「つまりね、王朝が代わっているということ。”王朝交替説”というのがあってね、天皇家は万世一系ではないという説だ」

     「特に古代において、この奈良盆地から河内への変化というのは、系統として繋がっていないと見た方が納得がいく」

     「まずは1番目、奈良盆地、三輪山山麓に宮=都をおいた”初期ヤマト王朝”(第10代の崇神天皇から第14代の仲哀天皇まで)」

     「名前に”イリ”という名称が入るということで”イリ王朝”とも呼ばれる」

     「2番目がこの河内に政権を置いた”第2次ヤマト王朝”(第15代応神天皇から第25代武烈天皇まで)」

     「こちらは名前に”ワケ”という名称が入るので”ワケ王朝”とも呼ばれる。どちらの王朝も実在しない天皇を含んでいるということを忘れないで」

コースケ君「でも先生、どうして交代なんか起こったんですか?」

田野倉先生「まあいろいろ取り上げられているけど、河内の勢力が瀬戸内海の制海権を掌握し、積極的に大陸や朝鮮半島に乗り出していったといわれている」

     「彼らは大きな権力を手に入れそれまでよりももっと巨大な前方後円墳を築造するんだ」

田野倉先生「4世紀の末築造といわれているのが古市古墳群の一つで第15代応神天皇の皇后 仲姫命の御陵、”仲ツ山古墳”290m(大阪府藤井寺市)」

     「5世紀初頭が百舌鳥古墳群の一つで”上石津ミサンザイ古墳”365m(堺市)、第17代履中天皇の御陵に比定されている」

     「5世紀前半築造で、第15代応神天皇陵として比定されている”誉田御廟山古墳”(大阪府羽曳野市)、古市古墳群のひとつで、420m」

     「そして最大、5世紀中葉が第16代仁徳天皇陵といわれている”大仙陵古墳”(堺市)だ。百舌鳥古墳群の一つで486メートルあるよ」

     「5世紀後半が”土師二サンザイ古墳”(堺市)、東百舌鳥陵墓の参考地で、第18代反正天皇が想定されている、290mあるよ」

     「そして同じく5世後半で”岡ミサンザイ古墳”(藤井寺市)245m、第14代仲哀天皇の御陵として宮内庁では治定されているが時代的におかしい」

     「ずっと後で亡くなったとされる神功皇后の御陵が”五社神古墳”で4世紀後半なのだからね。第21代雄略天皇の真陵とする説があるよ」

コースケ君「”大仙陵古墳”にしても第17代の履中天皇の”上石津ミサンザイ古墳”より新しいというのは変じゃないですか?」

田野倉先生「あ、やっぱり気か付いちゃったか。宮内庁の治定、比定というのが少し問題ありだね」

     「もうずいぶん前の史料で平安時代の『延喜式』なども参考にしているようだけど、その編纂時すでによく分からなくなっちゃっているみたいなんだ」

     「天皇については参考までにして、巨大前方後円墳が築造される古墳時代中期は前代からの変化が顕著に出る時期でもある」

     「人物埴輪が巨大化し竪穴式石室は幅広く、長持ち型石棺を納めるようになる。副葬品は呪術的なものは無くなり、馬具や甲冑、刀など軍事的なものが主流になっていく」

     「5世紀後半には横穴式石室が北部九州と畿内に採用され、石人や石馬なども北九州では見られるそうだ」
     
     「5世紀も終わりになると、畿内の一部で群集墳も現れてくる」

コースケ君「比較的小さいお墓ですよね。どういう人たちのものですか?」

田野倉先生「この時期になると、大王クラスだけでなく豪族や地域の力のある人たちなどもこぞってそういうお墓を造るようになるのだろうね」

     「大型古墳には家型石棺が取り入れられ、九州では地下式横穴墓も造られるようになる」

     「それに装飾古墳なども出てくるそうだ」

コースケ君「何ですか、装飾古墳って?有名な高松塚古墳やキトラ古墳とは違うんですか?」

田野倉先生「それは壁画古墳。装飾古墳は浮き彫りや線刻、彩色などで装飾したもので、墳丘のない横穴墓などもその中に入るということだ」

     「古墳時代でも中期から後期にかけて多く見られ、全国で約600基、その半分以上が九州地方に集中しているそうだよ。面白いね」

コースケ君「バリエーションが豊富だし、古墳づくりというのが一つの文化であることが分かりました」

     「すごくみんなが頑張って造っているという感じが伝わってきます」

     「そういった人々の力を集約させることのできたリーダーが“大王”なんですよね、すごいなあ」

     「卑弥呼の時とはまた全然別の、スケールの大きさというのかな」

田野倉先生「それはおそらく、列島だけでなく大陸や朝鮮半島にまで行動していたスケールの大きさだろう」

     「地域・地方の豪族の王を掌握統制して、半島からの鉄資源の供給ルートの確保や倭国として統合する軍事的力、例えば瀬戸内海における制海権とかを手に入れた」

     「そして、そのような力を持った”大王”が連続して系統だって登場したということだろうね」

コースケ君「あ、だから王朝なんですね」

田野倉先生「そうだ、古墳時代の中期はまだ大事なことが残っているのを忘れていた。”倭の五王”って聞いたことあるだろう」

コースケ君「中国の歴史書に書かれていた大王の名前ですよね。どの天皇のことなのか、よくわかっていないとか」

     「これを外すわけにはいきませんよね先生。次回必ず説明お願いしますね、約束ですよ」

田野倉先生「わかった、わかった」

コースケ君「ところで先生、先ほど言っていた装飾古墳って見ることができますか?」

田野倉先生「実際の古墳というのは内部を見ることができないけど、”熊本県立装飾古墳館”があるよ」

     「ここは装飾古墳の専門館で、建物は前方後円墳を模して造られているそうなんだ」

     「ただ、最寄りの駅というのは無いのでバスで行くことになる」

     「アクセスは≪熊本交通センター≫から[山鹿温泉行]に乗って”山鹿バスセンター”で下車、そこから[玉名駅行]に乗り換えて”県立装飾古墳館入口”で降りて歩いて20分」

     「新幹線で行くと≪新玉名駅≫からで、[米の岳経由山鹿温泉行]というのに乗って“県立装飾古墳館入口”で降りて歩いて20分」

     「JRの≪玉名駅≫からならやはり[米の岳経由山鹿温泉行]というのに乗って“県立装飾古墳館入口”で降りて歩いて20分だ」

     「体験教室などもやっているからHPは必ずチェックすること」

コースケ君「分かりました、行ってきます!」


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