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古墳時代中期ー倭の五王

真っ青な空にギラギラと照りつける太陽が容赦なくグランドを砂漠化する夏休み前。ボール磨きをしていた野球部山田君の頭にゴールポストではねかえった高熱ビームが直撃。

今季何度目かの保健室行きで監督先生の口から大きなため息が出るころ。

職員室にはつぶれてぺったんこになったメロンパンを呆然と見つめる田野倉先生がいました。

そこへHRを終えた数学の高橋先生が戻ってきて、

高橋先生「あ、田野倉先生、ここにいたんですか。コースケ君が探していましたよ」

承知の合図で片手をあげるとメロンパンは小さくたたまれ先生の口の中へ。

軽快に立ち上がり、ごみはゴミ箱。サンダルをパタパタさせながらちょっとだけ急ぎます。

フロアの奥の奥、歴史部部室と書かれた部屋では全開にした窓を背にコースケ君が両手を組んで待っていました。

コースケ君「先生遅いですよ、今日は”倭の五王”について話してくれるって言っていたじゃないですか」

田野倉先生「すまん、すまん。そう急かさないで」

     「日本の古代史にはたくさんの謎があるけどこれもその一つだ」

     「あの”空白の4世紀”にも匹敵するくらいこの”五王”の5世紀も分からないことが多いんだよ」


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田野倉先生「4世紀については中国や朝鮮半島の史料が少ないということで”空白”と呼ばれていたよね」

     「それに対して5世紀は中国の歴史書にちゃんと記載がある。でもね、それがかえって議論をよんでいるんだ」

コースケ君「それが”倭の五王”ですよね。5人の倭の大王が中国に朝貢したという」

田野倉先生「うん。『宋書』といってね。沈約(441年~513年)が斉の武帝に命ぜられて編纂したものだ。時代が近いし信ぴょう性は高い」

     「書かれている5人の名前は”讃・珍・済・興・武”」

     「これまでのところ、済=第19代允恭天皇、興=第20代安康天皇、武=第21代雄略天皇、という比定になっている」

コースケ君「”讃と珍”についてははっきりしていないんですね」

田野倉先生「『日本書紀』とのすり合わせで年代的に矛盾するところがあってね、断定できないということだ」

     「だけどね、ちょっと考えてみてごらん、おかしいなとは思わないかい」

コースケ君「え、どんなところがですか?」

田野倉先生「名前がどうにも中国っぽい。漢字一文字ということが果たしてあるかなあ。それに『宋書』には『日本書紀』には記されていない部分が多くあるんだ」

     「例えばね、まあしようがないといえばそうなんだけど、中国の王朝に朝貢していたということだよね」

コースケ君「ああ、そうですよね、“記紀”はヤマト王権の正当性とともに天孫降臨に由来する威信づけもあるわけだから朝貢をして臣下になるような内容のものは避けるはずで」

田野倉先生「そうなんだ。五王に可能性のあるどの天皇の事績を調べてみても、『宋書』の記述に相応するような記載は全くない」

     「わずかに応神天皇の時に、縫製の技術者を求めて中国の江南地方に使いを出したり、仁徳天皇の時には、呉国=宋の方が朝貢に来ている」

     「しかし、雄略天皇の時代になると、即位して6年目に呉(宋)に使者を派遣して、貢物を献上し、その後2回にわたって二人の使者を派遣している」

コースケ君「ええ~、何か微妙ですね。履中・反正・允恭・安康、それぞれの天皇のときには特に中国との外交について『日本書紀』には見られないんですね」

田野倉先生「うん。特に比定されている済=允恭天皇は3回派遣していることになっているけど、大陸との交渉の記述はない」

     「代わりに、新羅の医者を呼んだり、崩御の際には新羅王が悲しんで弔使を送ったりして、他の天皇の時世には見られない新羅との密な関係があるけどね」

     「雄略天皇については『日本書紀』の編纂時から最も近いわけだから、この天皇の事績に朝貢の記載があるのは、かえって面白い」

コースケ君「う~ん、方針に一貫性がないって言ったら言い過ぎなんでしょうか」

田野倉先生「中国への朝貢の記録はそんなものだけど、朝鮮半島との折衝の記録が『日本書紀』に残されているよ」

     「允恭天皇における新羅との友好的な文章は別にすると、応神天皇以下、新羅や高句麗とは緊張関係、百済とは友好関係にあったようだ」

     「任那に倭国の出先機関のようなものが存在していたと考えると、大王の覇権が及んでいた範囲は今よりずっと西北に広がる」

コースケ君「ええ、それだとそんな感じになります」
     
田野倉先生「『宋書』の中には他に特に目を引く記載がある」

     「珍・武の2人が“安東将軍倭国王”に加えて、朝鮮半島の王として認めてくれるよう宋の皇帝に要求していることだ」

コースケ君「どんなふうにですか?」

田野倉先生「珍は自ら“使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と称し、正式な任命を求める”」

     「武は自ら“使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と称し叙正を求める”といった具合だ」

     「それに対し皇帝は珍については“安東将軍倭国王”を与えている」

     「武についてはまず、“使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王”の称号を与えているよ」

     「そしてさらに南斉の時には“鎮東大将軍”、梁の時には“征東大将軍”に進号している」

     「特に要求していない讃・済・興については、当時の皇帝によってそれぞれ“安東将軍倭国王”の称号を得ている」

コースケ君「国際的な舞台ですごく積極的ですね。今の外交のニュースに出てくる日本人のイメージとはだいぶかけ離れている」
      
     「それに朝鮮半島の“王”とか”将軍”なんてすごい」

田野倉先生「いや、それがそうでもないらしいんだ」

     「讃がこの称号をもらったとき、高句麗王は“征東大将軍”、百済王は“鎮東大将軍”の称号をもらっているという指摘がある」

コースケ君「後に武がもらうものですね。なんだか将軍だらけだ」

田野倉先生「そうだね。“将軍”といっても日本の武家社会の“征夷大将軍”のように頂点に立つたった一人のリーダーというわけでもないね」

     「その地域の“支配権”を持っていることの承認でもないし、軍事力の一つの勢力として認められたというぐらいのことのようだ」

     「ただもちろん、それだけでもたいしたものだとは思うけど」

     「さらに言うとね、“秦韓”とか“慕韓”というのは当時すでに消滅している国で、数を増やし大言を吐いて威勢を誇っているという見方がある」

     「朝鮮半島においては5世紀のこの時代、かなりの軍事力で覇権を伸ばしていたという記載も『日本書紀』などにはあるようなので、まんざら嘘ではないだろうが」

     「これは一つの説だけど、そもそも“倭の五王”というのが果たしてヤマト王権のリーダーなのか疑わしいという見解もあるんだよ」

コースケ君「ああ、全然わからなくなってきた」

コースケ君「でも超巨大な前方後円墳を造ったのがこの時代で、ヤマト王権が強力になったのも事実ですよね」

田野倉先生「そう、それが証明されるのが実はあの“沖ノ島”なんだ」

コースケ君「文化遺産になったあの“沖ノ島”ですか?」

田野倉先生「そうだよ。宗像大社の三宮の一つ“沖津宮”がある。三宮だから他に、大島の“中津宮”そして本土にある“辺津宮”だ」

     「沖ノ島は“神の島”とよばれ、島全体が沖津宮のご神体となっていて、今でも女人禁制で厳しい決まりごとがたくさんある」、

コースケ君「“海の正倉院”とも呼ばれているんですよね」

田野倉先生「縄文時代には漁民らが上陸し漁業の基地として使用していたらしい」

     「弥生時代には供えらえたと思しき銅矛や青銅器が出土しているということだから、すでに航海の守り神としての信仰を集めていたのだろう」

     「さらに大陸や朝鮮半島と列島を結ぶ要所として神々が祀られると同時に各地の物品の集積地ともなっていった」

     「“記紀”にその御神名と鎮座している所がはっきりと記載されている最古の社だということだよ」

コースケ君「へええ~、由緒正しいんですね」

田野倉先生「それにどのように祭祀が行われたのかもわかっているというからすごい。その最初が4世紀後半から5世紀にかけての“岩上祭祀”なんだ」

     「そしてそれに大きくかかわっているのが“ヤマト王権”というわけ」

コースケ君「その根拠は何ですか?」

田野倉先生「一つはさっきも言ったように最古の社として“記紀”に記載されていること、『古事記』では大和の大神神社よりも記述が先なんだそうだ」

     「つまり、天孫降臨よりも前にアマテラスとスサノウとの誓約(うけい)により生まれた三女神が海北道中に降り立った」

     「そしてアマテラスの神勅で天孫を祀るために玄界灘の島々に鎮座した、という話だ」

     「“海北道中”というのは半島と九州本土を結ぶ最短コースだよ」

コースケ君「“記紀”が認めているわけですね」

田野倉先生「知識人によると沖ノ島の祭祀遺構は日本国家祭祀の起源であり、源流と考えられるらしい」

     「伊勢神宮に伝わる祭祀の方法ととてもよく似ていて奉献品が同一だということだよ」

     「ポイントはね、その祭祀が大規模に行われた始まりが4世紀後半だということ」

     「近畿のヤマト王権が勢力を強大化するのに、朝鮮半島との交渉、具体的には鉄資源の確保が必須だったことを考えるとそのルートの掌握は絶対だよね」

     「もとは地域の神でしかなかった宗像三宮に対し、ヤマト王権はそこを司る宗像氏に接近して財力をもって三宮を保護したと考えられている」

     「“好太王碑文”はあったけど、ヤマト王権が朝鮮半島に積極的に乗り出していく時期は、なんだかはっきりしなかったよね」

     「でも、この宗像三宮において“海北道中”の守り神の祭祀が本格的に行われる時期が4世紀後半ということが分かると、その痕跡が見えてくる」

     「つまり4世紀の半ばまでにはヤマト王権は最短ルートである”海北道中”を掌握し鉄資源とともに半島を通じ大陸の珍しい物資なども手に入れた」

コースケ君「朝鮮半島への最短ルートを獲得したことによりヤマト王権は倭国内でも半島においても大きな勢力となったということですね」

田野倉先生「それが邪馬台国の卑弥呼ような連合の盟主とは違う一段階上の”大王”というものだったのではないかなあ」

コースケ君「5世紀には世界でもまれにみる巨大建築物、前方後円墳を造るまでに、ということですね」

田野倉先生「そういうことだ」

コースケ君「先生、”沖ノ島”についてもっとよく知るためにはどうしたらいいですか?島には入れないんですよね」

田野倉先生「宗像三宮で”宗像大社”というんだ」

     「”沖ノ島”に行くことは簡単にはできないけど宗像三宮の他の二つ、”中津宮”と”辺津宮”には行けるよ」

     「”中津宮”は湍津姫(たぎつひめ、『古事記』では市寸島比売命(いちきしまひめ))、”辺津宮”は市杵嶋姫(いちきしまひめ)をお祀りしている」

     「ちなみに、沖ノ島の”沖津宮”には田心姫(たごりひめ)がご祭神として祀られている」

     「アクセスはつぎのとおり」

     「”辺津宮”へは、≪JR博多駅≫から鹿児島本線で≪東郷駅≫まで、北口に出て神湊波止場行きバス(宗像大社経由)に乗り[宗像大社前]で下車」

     「”中津宮”は大島にあるよ」

     「≪JR博多駅≫から同じく鹿児島本線に乗り≪東郷駅≫まで、東郷駅から福間行きバス(神湊経由)で[神湊波止場]で降りる」

     「今度は神湊から大島まで市営渡船[しおかぜ]かあるいはフェリー[おおしま]で大島港まで行く、という具合」
    
     「詳細については必ずHPを確認すること。大陸や朝鮮半島への玄関口として信仰とともに歴史を担ってきた雰囲気を味わっておいで」

コースケ君「了解です!身体じゅうで感じてきたいと思います」


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