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古墳時代ー空白の4世紀その4

小さなアンパン5つが入った袋を大事そうに抱え所定の位置に座ると牛乳のパックとともにテーブルに置いた。

放たれた窓からは放課後の野球部の部員たちの乾いた声が単発的に聞こえる。

「山田あああ~あと12本!」千本ノックならぬ13本ノックである。

サーティーと恰好つけて英語で言った監督先生の言葉を都合よく部員たちがサーティーンと解釈したもの。

万年補欠の山田君は1本目からもうバテバテ。直前でバウンドした2本目を顎で受けて保健室へと担ぎ込まれた。

空はどこまでも青く白い雲は遥か山の方に一つだけ。深呼吸をしてパックにストローを刺しアンパンの袋を開けたところで…。一瞬の遅れ。

少年の手が伸びたかと思うと中の一つを手に取りそのまま口に運ぶ。コンマ2秒の早業。


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田野倉先生は今日一番のびっくり顔で斜め37度に首を傾けるとそこには生意気そうな中学2年生が立っていました。

田野倉先生「何だコースケ君か。今日は部活休みだぞ」

コースケ君「それよりも先生、そんなに食べたらまた健康診断でひっかかりますよ」

田野倉先生がちょっとひるんだところをまた第2弾の手が伸びて2つ目もコースケ君の口の中へ。

ムッとする42歳中年男性に花の14歳はどこ吹く風の平気の平左。

コースケ君「ところで先生、”空白の4世紀”と言いながらも何だが中途半端な感じがするんですけど」

     「4世紀の後半がまだよくわかってないです。高句麗の”広開土王碑文”の解釈がまだ不十分のような」
     
     「邪馬台国からヤマト王権へと連続したと一応仮定して、倭国と朝鮮半島の国々との関係が今一つ」

田野倉先生「両国の史料の突合せとかけっこう面倒なことがあるんだ。でも、全く言えないことがないわけでもない」

コースケ君「だいたいこんな感じ、でも構いませんのでお願いします」

田野倉先生「よし、分かった」

田野倉先生「まず、”広開土王碑文”をざっともう一度見てみよう」

     「そもそも新羅や百済は高句麗の臣民で朝貢もしていたのに倭が海を渡ってやってきて臣民としてしまった」

     「どういうことなのかと百済に迫って再び約束を取り交わすが、399年、誓いをやぶって倭と和通した」

     「そのため王(高句麗王)は百済を討つ平壌まで出向く。ちょうどその時新羅から救援要請の使いがくる」

     「400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援。倭軍が退却した」

     「その勢いで任那・加羅まで迫ったら、今度は倭軍が逆を突いて新羅の王都を占領してしまった」

     「404年帯方地方、というからだいぶ半島でも奥の方だね、倭がそこまで侵入してきたので、これを討って大敗させた」

コースケ君「王様の偉業をたたえる碑文だから勇ましいですね。倭がずいぶんと朝鮮半島の中の方まで入り込んでいる風に聞こえますが」

     「南の任那は”日本政府”の出先機関があったわけだから、列島から軍隊を派遣するような大きな戦さを想像しない方がいいんでしょうが」

田野倉先生「ちょっと微妙だな。前にも言ったようにこの記述全部が真実かどうか疑わしい」

     「飛鳥時代、推古天皇の時代には3度朝鮮半島に軍事行動が計画されている。聖徳太子の弟である来目皇子が新羅征討将軍として2万5千もの軍を率いているよ」

     「でも4世紀のこの時代に大きな軍事力を誰が持っていたのかなというのが率直な感想なんだ」

     「ただ百済としては高句麗対策で半島南部の任那を、そしてそのバックにいる倭国を頼りにしていたことはうかがわれるね」

コースケ君「日本側の史料にはこの辺の所の記載は無いんですか?」

田野倉先生「まず『日本書紀』によると崇神天皇の時世65年に任那国から朝貢に来ているが、この一点だけ」

     「崇神天皇の没年を4世紀の初期にすると、これは最後の方の事績だから3世紀の終わりか4世紀の初めのことになる」

     「次の垂仁天皇の時は新羅の王子”天日槍(あめのひぼこ)”が神宝を持ってやって来て、そのまま但馬(現兵庫県豊岡)に土着した」

     「この伝承については『古事記』(天之日矛)とでは時代の違いがあるし、研究者の見解も様々」

     「それに、名前が日本風なのもおかしいという指摘がある」

     「新羅については他に、王族といわれる三つの氏族のうちの一つが倭人であり、そのルーツがやはり但馬である、という伝承が残されている」

コースケ君「新羅と但馬、だいぶ離れているけど、何か関係がありそうですね」

田野倉先生「いや、地図を見てごらん。新羅は半島の東側だし但馬は日本海側、円山川の川沿いにある地域なんだ。船で遡上することができる」
      
     「詳しく調べてみる価値はあるだろうね。過去の渡来人たちの足取りをたどるいいヒントになるかもしれない」

     「どうやら但馬を基点に倭人の往来も頻繁に行われていたのではないか、とみられているよ」

     「12世紀に成立というからあまり真偽のほどは確かではない『三国史記』には、新羅の項で倭人や倭国に関連する記載がとても多いんだ」

     「それによると紀元前50年から倭人たちが兵を率いて辺境を犯しに来ていたそうだ」

     「倭人の行動範囲は我々が考えておる以上に広かった、ということが言えるだろう」

コースケ君「日本側のその後はどうですか?」

田野倉先生「第12代景行天皇については実在性が疑問視されている」

     「なので、はっきりとは言えないがもし実在していたとしたら4世紀前半ぐらいだということだ」

     「あの”日本武尊(ヤマトタケルノミコト)”の父で、こちらの方がずっと有名人で、その活躍が記載の大半を占めている」

     「自身は熊襲征伐をしているが、その事績に国際的な事柄は無いなあ」

     「13代成務天皇もまた実在性が乏しく事績についても疑問点ありなんだ。実在していたら4世紀中ごろの人、国際的な事柄は皆無だよ」

コースケ君「最初の崇神天皇からしばらく実在してないかもしれないんですね。だいぶ怪しい」

田野倉先生「混乱しているんだろうね。”記紀”の編者にしても史料がないのだろう」

     「でもね、次の時代はちょっと違う」

田野倉先生「第14代は仲哀天皇だ」

コースケ君「わ、出てきた!ってこの天皇ではなく奥さんがすごいんですよね」

田野倉先生「そう、あの”神功皇后”だ。じつは残念ながらこの二人についても実在性が疑問視されていて、神功皇后については半々ということらしい」

     「ただそれ以前の天皇の記載よりも多く様々な伝承が伝えられているので、少しは期待が持てるかな」

     「まずこの神功皇后だけど。母は”葛城高額媛”(かずらぎのたかぬかひめ)。実は先ほどの”天日槍”の子孫だといわれてる」

コースケ君「え、あ、ええ~?え、でもこの皇后さまは確か朝鮮へ戦さするために出かけてますよね」

田野倉先生「そうなんだ。”三韓征伐”といいながらも”記紀”には直接の戦いとして、新羅戦が書かれているので”新羅征伐”ともいうそうだ」

コースケ君「自分の遠い親戚などが高い確率で居そうな戦をよくしますね」

田野倉先生「この辺り、史料に真実性が乏しいというのが研究者たちの見解だ。それにね、”新羅征伐”とはいっても本当に衝突してはいない」

     「新羅は神功皇后とその軍を見て恐れおののき刃を交えることもなく臣下に下った、ということなんだ」

コースケ君「え、なんかあっけない。あ、そうか、”記紀”ってそのために書かれたものですもんね」

     「つまりは王権の正当性と威厳を示すこと」

田野倉先生「うん。でももうちょっと詳しく見ていこうか」

     「仲哀天皇と神功皇后は熊襲征伐のために今の福岡県博多の香椎宮を訪れる。そこで皇后が神がかりになって神のお告げのを受けるんだ」

     「内容は熊襲よりも宝をいっぱい持っている新羅を攻めた方が良いというもの。これを仲哀天皇は無視してしまうんだね。それで結局は死んでしまう」

     「天皇の死は託宣を軽んじた罰だと判断した皇后は、自ら軍を率いて新羅に向かうんだ。そしてさっき言ったように戦わずして勝利を収めるという具合」

コースケ君「やっぱり出来すぎています」

田野倉先生「『三国史記』によると、それ以前から倭人や倭兵が新羅に侵入している。そこからは決して平和的とは言えない関係がよみとれる」

     「しかし4世紀に入ると”倭国の国王”が使者を送ったり、国交を断絶するという書を送ったりしている記載がみえるんだ」

     「断絶の後は倭兵がさかんに攻めてきている」

     「前にも言ったけどこれらのことが全部真実かどうかは全く疑わしい」
     
     「しかし、友好的とまではいかなくても何らかの繋がりが両国の間にはあったような感じを受けないかい」

コースケ君「ええ、断絶はしていないし、特に倭人の行動が活発なのが分かります」

田野倉先生「任那や友好関係を築いていた百済のことを考えると、倭国側は新羅についても関係を持とうと思っていたのではないかなあ」

     「この”新羅征伐”も”征伐”なんてものではなく外交交渉ではなかったのか、と見る見解があるんだ」

     「ここでさらなる史料が出てきた」

     「2011年に『梁職貢図』という中国皇帝に対して周辺諸国が貢物を携えてやってくる使者の様子を描いた絵と解説付きのものが発見されたんだ」

     「倭国の使者も百済や新羅の使者もその中にいる。問題はその新羅についての記述で、”ある時には韓に属し、ある時には倭に属し”と書かれていた」

コースケ君「ということは、先生の言ったのではなく神功皇后の”新羅征伐”の方が事実に近いことになるますよ」

     「なにより”好太王碑文”とも合致する!」

田野倉先生「倭人の方から戦争を仕掛けていったというニュアンスがどの程度真実かということなんだ」

     「外交交渉が決裂すると時に戦争に発展する場合もあるわけで」

コースケ君「先生、だいぶ歯切れ悪いように見受けられますが」

田野倉先生「まあまあ。神功皇后はその後も朝鮮半島における行動を活発化させ、使者を派遣して交渉を続けている」

     「新羅に加えて百済や高句麗も服属を誓って、特に百済との間では友好関係を築いていき、百済王から皇后に七子鏡と”七支刀”が贈られている」

コースケ君「石上神宮伝来の鉄剣ですよね。史料で見たことがあります。先生、ますます真実っぽくなってきてますけど」

田野倉先生「うう~ん、確かにねえ、形勢不利かな」

     「それまで長い間文化の受け手であった人々が積極的に半島に乗り出し、その勢力図を一変させるなんて、どこに力があったのかちょっと不思議で」

     「ヤマト王権が建設期で大事な時に、軍の派遣や外交交渉に多くの力を注いるようにみえるのが気になる」

     「その一方で、むしろそうすることで国内の力を集約していったのかもしれない、ともとれるし」

     「大陸や半島の不安定な状況を考えると積極的に出ないと鉄資源は得られなかったのだろう」
           
     「まあ、研究者の間でも、この辺のところはもっと詳細な調査が必要であるということで一致している」

コースケ君「いやいや先生、でもだいぶ4世紀のことがはっきりしてきました。我がご先祖様たちは列島だけでなく朝鮮半島でも活発に動き回っていた」

     「渡来人もたくさんこの時期には来ているんですよね。”空白”というと何も無い、と思っちゃうけど全然違いました」

     「ただ史料が少ないだけ。それもこれから発見されるかもしれない。分かることがどんどん出てくるかもしれない。楽しみです」


コースケ君「先生、ぼく”天日槍”がすごく気になっているんですけど。新羅の王子ですよね。何か関連する物を見ることはできますか」

田野倉先生「”天日槍”は渡来神として信仰され兵庫県豊岡市の”出石神社”に祀られている」

     「アクセスは、JR豊岡駅あるいはJR江原駅から全但バス、出石行きで”鳥居”下車、徒歩7分だよ」

     「天日槍にまつわる説話が残っているだろうからいろいろ見て感じてくること」

     「ついでに少し足を延ばして”兵庫県立考古博物館”にも行ってくるといい」

     「こちらのアクセスは、JRで三ノ宮駅から西明石駅乗り換えで土山駅下車歩いて15分JR姫路駅からなら加古川駅で乗り換えてやはり土山駅下車だ」

     「私鉄の場合は、山陽電車で阪神三宮駅から東二見駅乗り換えで播磨町駅下車、山陽姫路駅からなら高砂駅で乗り換えて播磨町駅下車だよ」

     「播磨町駅からは徒歩25分」
     
     「但馬と大陸を行き来した古代船なども展示されている。そしていつものように、ホームページは必ずチェックすることを忘れずに」

コースケ君「了解です!」


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