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古墳時代ー空白の4世紀その3

定期テスト最終日。クラブ活動解禁にもかかわらず、歴史クラブの部室はがらんどうのもぬけの殻。

それもそのはず活動日は水曜日の週1回。たとえその日でも敵前逃亡が後を絶たず。

文化祭間近になってやっと腰を上げる者ばかり。

ただ一人コースケ君だけは毎日のようにやってきて、なにやらごそごそとかび臭い本の山と格闘していきます。

しかし今日は廊下をのんきに歩いていた田野倉先生を引きずりこむとここぞとばかりに詰め寄りました。

コースケ君「先生、邪馬台国からヤマト王権への移行の話がまだ終わっていません」

     「邪馬台国については”東遷説”をとるんですよね、そして卑弥呼と台与を天照大神に比定した」

     「ライバル”狗奴国”の牽制と覇権拡大を目的として大型祭祀施設”纒向”を奈良盆地に形成」

     「これは卑弥呼が邪馬台国のみやこ(筑紫地方)から動かないと判断して、”共立”の片割れ男王が率いた集団によって行われた、と仮定しました」

     「と、ここまでは分かりました。あ、あと中国が五胡十六国の時代に入り、朝鮮半島は高句麗・新羅・百済の三国時代になった」

田野倉先生「そう、それと南部には伽耶諸国ができたのを忘れてはいけない」

コースケ君「そうでした。鉄資源の供給と関係があるんですよね。倭人の出先機関があったということを聞いたことがあります」

田野倉先生「”任那”だよ。大和朝廷かあるいはそこと関係の深い人々が、統治権や軍事統括権、それに徴税権も持っていたといわれている」

コースケ君「ほとんど支配していたと同じじゃないですか」

     「国際的にもずいぶんと状況が変化しているんですね。なので肝心の邪馬台国からヤマト王権への流れをもう少し明快にしたい」

     「先生、お願いします」

田野倉先生「そうだな。何度も言うようだけど、古墳の築造年代などが分かれば事情はもっとはっきりするよ。だから現時点ではあくまでも仮定だ」

     「この頃は文献資料の検証などが進んでいるので、こういうことも十分に”あり得るな”というのを紹介していこう」


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田野倉先生「カギを握っているのはどうも”崇神天皇”ではないかなと思うんだ」

コースケ君「ヤマト王権の最初の天皇ですよね。何度も登場しました」

田野倉先生「この天皇の実在によっていろいろなことが具体的に推察できるようになる」

   「ここまでの見解を挙げていこう」

     「邪馬台国九州説では、邪馬台国とヤマト王権とは全く別の勢力で、結局邪馬台国は、ヤマト王権によって滅ぼされたのだという見解になる」

     「畿内説をとると、一つはやはりそれぞれは別個のもので、後発のヤマト王権となる勢力によって邪馬台国は駆逐される」

     「そしてもう一つが邪馬台国からヤマト王権へはスムーズに移行したという説だ」

     「これには、崇神天皇は卑弥呼の”男弟”であったとか、いや台与の”摂政”ではなかったかという見解もあるよ」

コースケ君「面白いですね。でも、もう少し詳しく、崇神天皇の生没年は分からないのですか?はっきりしていれば、卑弥呼と台与のどちらと重なるのか分かりますよね」

田野倉先生「生年は不明だが、没年は258年か318年だということだよ」

コースケ君「わあー、微妙!どちらとも重なりそうじゃないですか。先生はどう思いますか?」

田野倉先生「卑弥呼は筑紫から動かないので崇神天皇と出会うことはない。もし会うとしたら、台与の方じゃないのかな」

     「東遷説を主張する研究者は多いし、私もそれに賛同するが、いつ移動したかとなるとどうもはっきりしない」

     「『魏志倭人伝』に書かれている卑弥呼のお墓、つまり”塚”の問題がある。仮に福岡県の”石塚山古墳”とするとお墓完成後に東遷が行われたことになる」

     「後の者たちに管理などを任せたのだろうか、ちょっと寂しい気もするね」

     「ただ卑弥呼の死について、”日食”によるなど自然死ではないとすると、”石塚山古墳”説はとりたてて不思議でもなくなる」

     「台与は”宗女”ということだけど、本来の”宗女”は”正当な”とか”嫡出の”という意味だ。でも、卑弥呼は結婚していないから彼女の子供ではないだろう」

     「一族の者の中から選出されたと考えられる一方で、卑弥呼の”正統な後継者として”くらいの意味合いともとれる」

     「そうなると感情的なつながりがあったかどうかは疑わしい。お墓を残していくことをさほど重要とは考えなかったかもしれない」

     「出自も筑紫と日向という風に異なるという説もあるんだ」

コースケ君「台与は日向の出身だったんですか?」

田野倉先生「こう主張している研究者は卑弥呼が筑紫の出であることを検証したんだけど、そうすると”神武東征”で神武天皇が日向から出発したことに合点がいく」

     「邪馬台国にとって日向はなじみの場所だったというわけだ」

     「お墓に話を戻すとね、奈良盆地に入ってから築造したのなら『魏志倭人伝』に書かれているような情報はどのようにして入手したのか、ということになるよね」

     「まあ細かいことだが、ちょっと気になるところだ」

     「そして仮に”箸墓古墳”を卑弥呼の墓だとすると、現在比定されている倭迹迹日百襲媛命との関係はどうなるか、ということ」

コースケ君「この倭迹迹日百襲媛命も卑弥呼ではないかといわれている人ですよね」

田野倉先生「そう。崇神天皇の祖父第8代の孝元天皇の姉妹だから大叔母に当たる人なんだけどやはり巫女のような存在なので、そう考えられている」

     「でも、卑弥呼が九州の筑紫で亡くなったとすると、倭迹迹日百襲媛命は卑弥呼ではありえない」
      
コースケ君「台与だとしたらどうでしょう?」

田野倉先生「崇神天皇の陵墓と考えられているのが”行燈山古墳”か”西殿塚古墳”だ。、どちらも4世紀前後の築造だと推定されている」

     「となると、崇神天皇の没年は258年ではなく318年ということになって、天皇に助言をした倭迹迹日百襲媛命は卑弥呼ではなく台与の可能性が強くなる」

     「まあ、いずれにしも”箸墓古墳”については築造年代が判明するば決着はつくだろう」

田野倉先生「さて、前に戻って考えてみるよ。邪馬台国からヤマト王権へ連続しないとしたらどうだろうかということだ」

     「崇神天皇の時代に邪馬台国と重なる部分があったとすれば、この天皇の事績として記紀に何らかの言及があってもおかしくないよね」

     「全く別個のものなら、東遷後の邪馬台国と誕生しつつあるヤマト王権が衝突した形跡があってもいいはずだ」

コースケ君「もちろんそうですよ。”制圧した”とか”支配した”って。崇神天皇の時代に西から来た人たちについて何かないんですか?」

田野倉先生「崇神天皇が行ったことは大きく分けて2つ。それまで宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神を移したこと」

コースケ君「天照大神は今は伊勢神宮で祀られていますよね。それが以前は天皇(=大王)と同じところにいたんですね」

田野倉先生「”同床共殿”というそうだ。天照大神が卑弥呼だとすると移すというのは興味深いね。何か意味がありそうだよ」

コースケ君「”記紀”では言及していないんですか?」

田野倉先生「『古事記』では、二神の神威の強さを恐れたため」

     「『日本書紀』では、百姓の流離や背反など国内情勢の不安に対して、それは二神を居所に祀っているからだ、としている」

コースケ君「だから、ちょっと遠ざけたっていうことですね」

田野倉先生「”ヒメ・ヒコ制”って覚えているかい?軍事的指導者の男王と呪術的指導(司祭者)の女王の二人による統治だ」

     「実はその男女共立が実質的には力を失っていくと考えられているのが第8代の孝元天皇からと言われている」

     「時期的には合っているね」

     「呪術的な指導者である巫女の権威が次第に弱まっていったんだ」

コースケ君「大陸や朝鮮半島の状況の変化が列島にも影響をもたらしたんですか?それまでのやり方ではうまくいかなくなったとか」」

田野倉先生「そういうことかな。鉄素材の供給が集団の長にとっては大きな課題だからね」

     「朝鮮半島の加羅を基点に百済と友好関係を保持していく。これが高句麗や新羅を牽制しつつということなのだから大変だ」

     「軍事力と祀りごとを別々の人間が行うことに非合理性を感じたのだろう」

     「特に中国においてはそのような政治の仕方はしていないわけだから、情勢に通じている人にとっては遅れていると考えたとしても不思議ではない」

コースケ君「つまり先生は、それが崇神天皇による天照大神と大国魂神の移動という形で”記紀”あらわされている、と見るわけですか」

田野倉先生「まあ、そう考えることもできるかな、という程度だけど」

コースケ君「なるほど~。で、崇神天皇のもう一つの事績は何ですか?」

田野倉先生「”四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)”を派遣して王権に反対する勢力を征伐したことだよ」

コースケ君「何ですか?、その”四道将軍”って」

田野倉先生「『日本書紀』によると、大彦命、武ぬな川別命、吉備津彦命、丹波道主命の4人がそれぞれ北陸、東海、西道、丹波に派遣される」

     「多分に神話的な色合いが濃いことから真実性については疑われているが、初期のヤマト王権の拡大と一致するという見解がある」

     「実際、4世紀における前方後円墳の伝播の地域と重なる部分が多いということだ」、

     「それにこれには九州は入っていないということが注目してもよいところだね」

コースケ君「どうしてですか?」

田野倉先生「九州説を唱える人や東遷説で、邪馬台国からヤマト王権への継続を主張する人は九州は本来の故郷だからそこへ軍を派遣することはないのだという理屈になるんだ」

コースケ君「ああ、確かにそう考えられる」

     「いずれにしても崇神天の時代には”女王”という権威は縮小して、ヤマト王権は拡大しつつあるということですよね」

     「少しはっきりしてきました。東遷説で邪馬台国とヤマト王権は連続すると考えれば、”記紀”の記述は明快になります」

田野倉先生「何かを主張する場合、一つの仮定をとってみることも必要になる。今回は東遷説、卑弥呼=天照大神説をとって説明してみたけど、どうだったかな」

     「これはあくまで一つの説だから、何か大きな発見があると覆ってしまうということを念頭に置いてほしい」

コースケ君「分かりました。とにかくヤマト王権は朝鮮半島においてそれまで以上に鉄資源の確保に力を入れる必要があった」

     「王権そのものを大きくし他の国(あるいは部族)に対して信頼を得るとか覇権を得るとかするために」

     「僕はそれを行った人たちとは誰なのかとても気になっていたけど、邪馬台国と連続すると考えると納得が一応つきます」

     「それも卑弥呼が天照大神と考えれば、中国に朝貢していた邪馬台国を表面に出すことはできないが、皇祖として崇拝している現実を見ればつじつまが合うわけですよね」

コースケ君「ところで先生、がぜん北部九州がまた注目されてきたような気がします。”石塚山古墳”を見てみたいのですが」

田野倉先生「”石塚山古墳”は福岡県京都郡苅田町(みやこぐんかんだ)という所にあるよ。JRの日豊本線に乗って苅田駅で下車、歩いて15分だ」

     「近くに苅田町役場があって、その敷地内には”苅田町歴史資料館”が併設されている。旧石器時代から近世まで、たくさんの史料が常設展で見ることができるよ」

     「足を延ばすことができるなら”福岡市埋蔵文化センター”も見てくるといい」

     「アクセスは、西鉄バスでは博多バスターミナル12番のりばから行先番号41番のバスに乗って約30分、 板付(いたづけ)中学校前(埋蔵文化財センター前)で降りてすぐだ」

     「西鉄を使うのなら天神大牟田線に乗り雑餉隈(ざっしょのくま)駅で下車して歩いて約15分」

     「こちらは考古学的資料が満載で、大陸や朝鮮半島との窓口として北部九州がいかに栄えてきたかがわかるようになっている」

     「国際色豊かな文物とともに当時の人々の息吹も感じてきてほしいな」

コースケ君「了解です。HPもちゃんと確認していきますね」


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