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古墳時代ー空白の4世紀その1

回収したノートの山が崩れ落ち、なだれとなって隣の先生の机を占領しているのも何のその。田野倉先生は背中合わせ、斜め向こうの先生と将棋迷人戦の真っ最中。

そこへコースケ君がやってきました。

コースケ君田野倉先生いらっしゃいますか。あ、先生、もう部活始まっていますが」

     「僕部室で待っているのですぐ来てくださいね」

部活といっても3人だけの弱小クラブ。今日は2人が逃亡してコースケ君がただひとり。

≪我が町の街道巡り≫の下調べは持ち越しにして彼は先生に詰め寄りました。

コースケ君「先生、古墳時代の中の4世紀は“空白の世紀”って呼ばれているんですね。でもなぜそう呼ばれているんですか?」

田野倉先生「文字に書かれた史料が乏しいからだよ。これまでは中国の正書である歴史書があったよね」

コースケ君「『漢書ー東夷伝』や『魏志ー倭人伝』ですね」

田野倉先生「そう、中国が“五胡十六国”といってたくさんの国々が割拠する時代になってね、信頼に足る書物が書かれていないんだ」

     「この時代は考古学的な成果に頼るしかないというわけさ」

コースケ君「だから僕の頭の中でこうぼーっとした感じだったんだ」

田野倉先生「それでも考古学の調査は進んでいるし日本側にある文献なども総動員して様々な意見が出されているよ」

     「以前に比べると4世紀もだんだんわかってきているといえるんじゃないかな」

コースケ君「え、それなら教えてください。モヤモヤが少しでも晴れるなら」

田野倉先生「古墳時代の“中期”つまり5世紀について明らかにし、戻って4世紀を検証するという手段もあるかとも思ったが」

     「よし、分かった。今回は“空白の4世紀”を埋める様々な説を見ていこう」

     「まず何を語るにもベースとなるのは邪馬台国がどこにあったかということだ。これを踏まえた上でヤマト王権に至る道筋を探る検証している」
      
     「ただしどの説も一つの説であり定説にはまだまだ至ってないことを理解しておくこと」

コースケ君「わかりました、お願いします」


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田野倉先生「まずはおさらい」

     「247年か248年に卑弥呼が死んで台与が後継者になり、266年に邪馬台国にいた晋の使節を都の洛陽まで送っていった」

     「これは『魏志ー倭人伝』に明記されてる」

     「その一方で、奈良盆地にそれまでとは規模の違う古墳が造られるようになった。これが3世紀半ば、古墳時代の始まりだ」

コースケ君「そうでした。埴輪を伴わない前方後円墳の“出現期”があって、王墓クラスの大きな古墳が出てくるのが“前期”」

     「卑弥呼の墓ではないかといわれて“箸墓古墳”や崇神天皇陵の“行燈山古墳”などがそれに入るんでしたね」

     「他にも崇神天皇以降の大王クラスの陵がたくさん現れるんですよね」

田野倉先生「ヤマト王権が奈良盆地、もっと細かく言えば“纏向遺跡”の付近で誕生したということは確かだといわれている」

     「崇神天皇は天皇の系譜の中では第10代の天皇だけど実在が認められるヤマト王権の最初の天皇」

     「そして崇神天皇以下3代の天皇陵がこの付近に存在しているというのもこの地が指定される大きな理由だ」

     「崇神天皇に助言を与えたとされるのがおばに当たる倭迹迹日百襲媛命であり、箸墓古墳の被葬者にも比定されている」

     「巫女としての性格からこの倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼ではないかという説がある」

コースケ君「数ある卑弥呼の人物比定の中でもけっこう有望なんですよね」

田野倉先生「そうなんだ。ということで、邪馬台国“畿内説”として考察してみよう」

     「箸墓古墳の年代が卑弥呼の死亡時期に近いということが分かると、がぜん有力になっている」

     「それに“纒向遺跡”の方は2世紀末に突然現れそして4世紀中ごろにまた突然消えるということことが確認されている」

     「これがまさに卑弥呼から台与までの支配機関に相当しそうだね」

     「つまり“纏向遺跡”は邪馬台国の人たちが作ったということになるだろう」

     「しかし“纏向遺跡”が邪馬台国ということにはならないよ」

コースケ君「え、なぜですか?」

田野倉先生「弥生時代の集落跡が確認されていない一方で祭祀に関連した遺構が多い」

     「それに、全国各地で造られたとみられる遺物の出土や祭祀で供物として使われる桃の実が大量に検出されている」

     「こういったことから、“纏向遺跡”は“国”というより三輪山などをご神体とした祭祀の一大聖地だったのではないか、という可能性が高い」

コースケ君「それなら“近くに”邪馬台国の痕跡がなければならないですよね」

田野倉先生「そうなるね、ところが邪馬台国に匹敵するような遺跡は今のところ出てきていない」

     「それに『魏志ー倭人伝』の説明から邪馬台国は南国のような、海に近いような印象を受けないかい?」

     「海に潜って魚や蛤を獲る漁師や土地は温暖だという表現があっただろう」

コースケ君「それに生野菜を食べるというのも、新鮮な野菜がそれも豊富に採れるという印象だし、盆地の感じは受けませんね」

田野倉先生「こういった表現から、奈良盆地とはマッチしないという考える人は少なからずいるんじゃないかな」

     「中国への使節の派遣にしたって港が近いように思える」

コースケ君「奈良盆地ではないとしたらどうなるのでしょう?あ、そういえば北部九州にも古墳はありましたね」

     「“出現期”に同じように卑弥呼の墓と目される“石塚山古墳”が」

田野倉先生「うん、それなら“九州説”で考えてみるよ」

     「いち早く水田稲作を取り入れ、朝鮮半島や大陸との玄関口として発展した北部九州は“筑紫王朝”とも呼ぶべき大きなクニから国へと展開した」

コースケ君「“吉野ケ里遺跡”もありました。“対馬国”や“伊都国”は確認されているわけだし」

田野倉先生「となると、“石塚山古墳”が卑弥呼の墓ということになる」

コースケ君「ああ、でもそれ以外に3世紀の中ごろの古墳で北部九州には大きなものは無いんですよね。ヤマト王権とつながらない」

田野倉先生「そこで出てくるのが“東遷説”だ」

田野倉先生「“東遷説”の一つは九州の“邪馬台国”が台与の時代以降に畿内に移動したというものだ」

     「“天孫降臨”や“神武東征”と結びつける考え方があるよ」

コースケ君「卑弥呼を天照大神とする説もありましたね。“神武東征”では日向からの出発に僕は違和感をもちました」

田野倉先生「別に、それらの話とは関係を持たせない意見も多い。関係づけなければ地名にこだわる必要もなくなるだろう」

コースケ君「ええ、確かに。でもそうなるとこれらの話の意義はどうなりますか?」

田野倉先生「そうなんだ。二つはヤマト王権が神を先祖にもつ我が国の正当な支配者であることを意味づけしている“核”となる話だね、絶対に重要なものだ」

     「“天孫降臨”はニニギノミコトが天照大神の命を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から“日向国”の高千穂峰へ天降ったというものだった」

     「この“日向国”はやはり九州の日向と見るのが適当だし、そうなると二つともが九州、それも日向が出発点となる」

     「これは、今は畿内に都しているが、自分たちの故郷は九州にある、ということを表していると解釈するんだ」

     「要するに東遷説の根拠もここにあるわけだ」

     「しかし、これらの話に依拠しなくても、合理的に考えることはできる」

コースケ君「つまりどういうことですか?」

田野倉先生「“九州説”と“畿内説”のいいとこどりのようだけど、卑弥呼が居たのは九州で、台与の時代になって“みやこ”を畿内に遷したという考え方だ」

     「この説の一つが久米雅雄氏による“二王朝並立論”だよ」

     「『魏志ー倭人伝』の中の行程から“筑紫女王国(主都)”と“畿内邪馬台国(副都)”として、単に都を遷しただけとするんだ」
     
     「しかしこれについても、この邪馬台国がヤマト王権とどう関わってくるのかは、説明できていない。つまり明白なことは分からないまま残ってしまう」

コースケ君「ああ、何だか堂々巡りですね」

田野倉先生「何か手がかりのようなものがあるとすれば、やはり外国の史料だね」

     「前にも言ったように、中国側の史料がなく、わずかに現在の中国吉林省、当時の高句麗の“好太王碑文”があるだけ」

コースケ君「どういうものですか?」

田野倉先生「高句麗の長寿王が父、好太王(広開土王)の事績を記念して建てた碑文だよ」

     「そこには、“元々百済や新羅は高句麗の属民であり、朝貢もしていたが、倭が辛卯年(391年)海を渡って百済・加羅・新羅をやぶり臣民としてしまった”」

     「そこで“6年丙申(396年)王自らが水軍を率いて百済国を討伐した~”」

コースケ君「倭に朝鮮出兵があったってことですか?」

田野倉先生「この碑文については解釈が様々でね。そもそも書いてあることが真実かどうかもわかっていない」

     「高句麗が百済を攻めるための口実として倭を持ち出したのではないかという意見もある」

     「4世紀後半は朝鮮へ向かうにしても、戦さのためなどという理由は無謀すぎる気がするんだ」

     「ただ朝鮮半島との関係からすると、鉄資源の確保という目的が考えられる」

     「この碑文からは少なくとも、鉄資源のために海を渡り、半島の国々に何らかの影響を及ぼすほどの勢力が倭の側に存在した、という事実は確かなんじゃないかな」

コースケ君「鉄は当時の最新の技術ですよね。鉄を持っているものが強いっていうか。北部九州や日本海側の国々がたくさん持っていたと思うんですが」

田野倉先生「そうなんだ。そこで恐らくこの4世紀、倭の側に大きな動きがあるとすれば、この鉄資源をめぐって変化があったということが推測される」

     「つまりそれは、何らかの理由で北九州の勢力が主導ではなかった」

     「畿内の勢力がこの動きの主人公で、それが邪馬台国からヤマト王権への移行という形になっていったのではないか」

コースケ君「ヤマト王権の誕生には鉄資源が大きく関係しているということですか」
      
     「でも、どのようにして畿内の勢力が朝鮮半島まで力を及ぼすことができたんでしょうか?そして王権まで成立させるわけですけど」

田野倉先生「そう、そこが重要なところだね。でも今回はここまで。鉄資源をめぐる問題は長くなりそうだ。またの機会にしよう」

コースケ君「先生、約束ですよ、お願いします」

コースケ君「ヤマト王権が生まれた所ってやっぱり僕、興味あるんですけど、纏向遺跡に関係して埴輪も見ることができる所ってありますか?」

田野倉先生「まさに“纒向学研究”という研究誌も出している“桜井市立埋蔵文化財センター”があるよ」

     「纏向遺跡のコーナーはもちろん埴輪コーナーもある」

     「アクセスは京都駅からなら、まず近鉄京都線や橿原線で“大和八木駅”下車。大阪線に乗り換えて“桜井駅”で下車したら奈良交通バスに乗り“三輪明神参道口”で降りて歩いて1分」

     「バスに乗らなけければ、“桜井駅”からJR桜井線に乗り換え`三輪駅’下車で歩いて10分だよ」

     「JR京都駅からは奈良線“奈良駅”で桜井線に乗り換えて“三輪駅”下車、歩いて10分。大阪からなら、大阪環状線“鶴橋駅”で大阪線に乗り換え“桜井駅”に下車。あとは同じ」

     「古いところでは旧石器時代から桜井市の歴史を見ることができる。流れをしっかりつかんで欲しいな」

     「休館の情報や詳しい交通機関の利用案内もあるので、HPは絶対に確認すること」

コースケ君「了解です、しっかり見てきます」


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