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古墳時代とは?

ここは郊外のとある中学校。生徒が帰った放課後の廊下をサンダルのパタパタ音が響いています。

それが運動場の野球部の掛け声と重なって奇妙なリズムを打っていることに気づいた田野倉紘一先生。

調子を外してはなるまいとツーステップで歩調を整え、両手も振って2小節。突然の演奏の休止は廊下の端まで来たからで、そこは歴史部部室と書かれていました。

田野倉先生「あれコースケ君、まだ帰っていなかったのか」

コースケ君「あ、先生、ちょっと調べものがあって今日、歴史の授業で“古墳時代”について勉強したんですけど」

田野倉先生「そういえば、もう2年生は歴史に入っているんだよね。どう?面白いでしょ」

コースケ君「ええ、まあ。でもわからないことが多すぎて。先生、教えてくれますか?」

田野倉先生「どうした?かしこまって。ま、何でも聞きなさい」

コースケ君「まず古墳時代って“前方後円墳”など大きなお墓を造れるだけの権力を持った人が現れて、それが弥生時代とは違うっていうことですよね」

     「エジプトのピラミッドのように。でも“前方後円墳”って割とあちこちにできているように思えるんですけど」

     「それって前の時代よりも大きな力を持った人があちこちに現れたってことですか?」

     「それに、畿内にできる“ヤマト王権”との関りが僕にはちんぷんかんぷんで」

田野倉先生「またずいぶんと難しい問題だね。なるほど、そういう疑問も出てくるのか」

     「“古墳時代”は日本の国家形成のカギを握る時代だからね。簡単に片づけるわけにはいかないな」

     「ではコースケ君の要望に応え、“古墳時代”とは何か、少しみていこうか」

コースケ君「お願いします」

田野倉先生「“古墳時代”とは弥生時代と奈良時代の間にあって、だいたい3世紀の半ば過ぎから7世紀の末までをいう」

コースケ君「なんでその期間なんですか?」

田野倉先生「3世紀半ばというと、何があったか思い出してごらん」

コースケ君「ええ~と、卑弥呼が死んだ頃じゃないですか。そう、確か247年か248年」

田野倉先生「そうだ。卑弥呼の死によって邪馬台国は戦乱の時代に入り、その後、台与の即位まで続く」

コースケ君「卑弥呼の死によって“弥生時代”が終わり、そして“古墳時代”が始まるんですか?」

田野倉先生「いや、そういうことではない。ただ卑弥呼の死のだいたい3世紀半ば頃からそれまでとは全く規模の異なる墳丘墓が造られるようになるんだ」

     「卑弥呼のお墓ではないかと推定される“箸墓古墳”のある奈良盆地に初期の前方後円墳が多数見つかったのを知っているよね」

     「早いものは“纒向石塚古墳”で出土した木製品から、225年には築造されていたのではないかといわれている」

コースケ君「実際には卑弥呼の生きていた時代、邪馬台国の時代から古墳は造られ始めた、ということですね。それも突然にとても大きな」

田野倉先生「初期のものはきれいな“前方後円”ではないけどね。この“纒向石塚古墳”も前方の部分は三味線の≪ばち≫状に開いている」

     「“纒向石塚古墳”を含む“纒向古墳群”それに“柳本古墳群”、大和古墳群(狭義の)の3つで“大和古墳群(おおやまとこふんぐん)”というんだが」

     「前方後円墳12基、前方後方墳5基、円墳7基が確認されていて、その全部が3世紀前半から4世紀の初めごろまでの築造だということだ」

コースケ君「これまでとは格段に違う大きな力を持ったリーダーが現れたってことですよね」

田野倉先生「うん。縄文時代は約1万年。次第に人々は集団で暮らすようになって定住生活が始まる。集団の構成員たちは集団にいた方が暮らしやすいから、その存続に力を注ぐ」

     「安定した狩猟採集はひとえに自然に依存し、その確保という基盤の上に集団の存続、つまり子孫を絶やさないということが最大の課題になっていた」

     「弥生時代なると他集団との抗争が集団存続の危機となる。存続と拡大が同じ意味を持つようになるのがこの時代だといえるだろう」

     「ムラはクニとなり、そして“国”になる。邪馬台国の様子は、それぞれの“国”が自分たちの“倭における国”を認識しはじめていることがうかがわれる」

     「邪馬台国よりも早く、紀元前1世紀には“漢”に朝貢する国があったことを『漢書 地理志」が伝えているよね」

     「さらにその中の一つの“国”が“倭”というばらばらの地域集合体から脱却して一つの有機的な政権=古代国家を形作っていく」

     「この動きというか変化、つまりはヤマト王権へと集約されていく過程が“古墳時代”といえる」

コースケ君「道筋は何となくわかりましたが、何故“前方後円墳”があちこちにできているのかは応えられていませんよ」

田野倉先生「そんなにせかないで、これは邪馬台国の九州説と畿内説にもかかわる微妙な問題でね」

     「3世紀後半ごろ畿内・瀬戸内海沿岸地方に出現した“前方後方墳”は4世紀後半ごろから全国に広まっていった」

     「それまでは、つまり弥生時代の後期ごろだね、地方ごとにそれぞれ特色ある墓制であったにも関わらずだよ」

     「土器の流行とは違う。お墓の形が一様になっていくというのは何か理由があるからだ」

コースケ君「元々はどんな形だったんですか?」

田野倉先生「北部九州地方は弥生時代の中期が最盛期だけど“甕棺墓”、近畿地方はだいたい“方形周溝墓”」

     「出雲などの山陰地方は“四隅突出型墳丘墓”、そして吉備地方(岡山県)の楯築墳丘墓は“双方中円墳”だ」

コースケ君「後の二つは初めて聞きます」

田野倉先生「“四隅突出型墳丘墓”というのは方形または長方形で四隅が外方向に引き伸ばされたような形」

     「“双方中円墳”というのは主墳の向き合う二つに突出部が見られる墳丘だよ」

コースケ君「二つとも独特な形ですね。そんな特徴的なものを造っていた地域が、ある時期から画一的に“前方後円墳”を造るようになるなんて」

コースケ君「なぜそのような動きが起きたのですか?」

田野倉先生「背景として、そこには畿内を核とする統一的な政権の確立があったのではないか、という説が主流になっている」

     「“前方後円墳”自体も独特な形状だが、これもそれぞれの墳丘墓の特色を融合したものと解釈されているよ」

     「それで一説には、“前方後円墳”とは各地方豪族がヤマト政権に下った印として、許可のような形式で築造されていった、ということなんだ」

     「すなわち、“ヤマト”を盟主として各地域との“連合”という関係が成立した上で、まず奈良盆地で造られていた“前方後円墳”を瀬戸内→北九州へと広げていった」

     「各地域の政治勢力を統合していく過程で衝突もあったに違いない。『日本書紀』の中にそれを窺わせる記述も散見するが真実の所は分からない」

     「だから一方では、北部九州の勢力が“東遷”し奈良盆地の勢力を“制圧して”ヤマト政権を樹立したという説も成り立つことになる」

コースケ君「わあ、確かに微妙ですね。西へと覇権が拡大していったのなら何らかの考古学的な証拠が欲しいですよね、大きな戦さがあって西へ進んだ跡とか」

     「でも北部九州勢力の“東遷”を仮定するとしたら、奈良盆地で“前方後円墳”が造られる前に、ということになりますよ」

田野倉先生「東遷説によれば、卑弥呼没後の混乱とそれに続く台与の即位の後に東遷があったと考えている」

     「まず副葬品という風習やそれまで畿内には多くなかった鉄製品がその後顕著に出土するようになった点などを挙げているが、決定的な根拠なるものは見られない」

     「また“神武東征”という見解があることも一応挙げねばならないだろう」

     「実際に、後に神武天皇となる人物が九州の“日向”から出発して畿内に入り即位する、と主張している研究者もいる」

     「そこまででなくても、それに近い“勢力”が東へ向かったという見解は少なくはない」

     「いずれにしても“邪馬台国論争”と一緒になり、仮に“東征”が事実としても、それが3世紀中ごろの卑弥呼以前なのか以後なのかという根本的なところで確証がない」

     「また、そのころ畿内では“前方後円墳”の出現期を迎えているという考古学的事実があることを忘れてはいけない」

     「それに疑問なのは東へ向かうその理由だ」

コースケ君「それは勢力の拡大ではないんですか?」

田野倉先生「うん、ただ二人の女王の後、九州にはいくつかの大きな勢力はあっても邪馬台国ほどの国はなかったようだ(邪馬台国九州説による)」

     「小国分立の状態で、そこから脱する意図があるにしてもだよ。特に北部九州が先進地域だということを考えると何故東に、となる」

     「“神武東征”は日向、つまり今の宮崎県あたりだから少し離れているけれどね。“出雲”や“吉備”は鉄生産が盛んだがそれを狙っていたとは考えにくい」

     「同じように九州も豊かなんだ。となると、外的要因によるところの“倭国”としての統一国家建設ということが考えられる」

コースケ君「“外的要因”って何ですか?」

田野倉先生「例えば、朝鮮半島や大陸からの侵入などかな。でもそれなら、みんなで一致団結しよう!“倭国”を守ろう!なんていう主張が“記紀”のどこかにあってもいい」

     「それもなくただ“東征”というものが事実なら、それは九州における主要な動きではなくあくまでも“一つの”動きにすぎないとみるべきということになる」

コースケ君「ではその単なる一つの動きが東へ進むにつれてどんどん行く地域行く地域を勢力下におき、ついには奈良盆地に入ってそこにいた人々をも支配してついにはヤマト王権を成立させたと」

田野倉先生「そういうことだ。そして奈良時代に入り統一国家誕生の勇ましくも輝かしいエピソードとして、その動きを飾り立てた」

コースケ君「う~ん、全部が何か仮定のような気もするんですが。もしこうだとしたらこうなのだから~」

田野倉先生「これは、邪馬台国がどこにあったかという問題と邪馬台国とヤマト王権が連続するのか、それとも全く別系統、非連続なのかという重要な問題なんだ」

     「もっと詳細なそれでいて大局的にも正確な調査が必要だね。動かしがたい決定的な年代が見つかれば、例えば大きな古墳の築造年代とかがわかれば、色々なことが判明するだろう」

コースケ君「分かりました。頭の中が少し整理できたような気がします」

コースケ君「先生、古墳時代が“日本国”誕生のルーツを探る重要な時代であることは分かりました。僕もう少し目で見た感じで知りたいのですが、どこかにそういうところありますか?」

田野倉先生「“橿原考古学研究所付属博物館”はどうかな。纏向遺跡なども近いし、“前方後円墳”とともにヤマト王権の空気を味わうことができるだろう」

     「新大阪駅からだとJR環状線または大阪市営地下鉄御堂筋線に乗って天王寺で近鉄電車に乗換え、大阪阿倍野橋駅から近鉄電車に乗って橿原神宮前駅(急行:約40分)で下車し歩いて15分」

     「京都駅からなら、近鉄で畝傍御陵前駅(急行:約70分)で下車、徒歩5分」

     「名古屋駅からでは、やはり近鉄で大和八木駅で乗り換え[近鉄電車/近鉄橿原線](特急:約110分)、畝傍御陵前駅下車で徒歩5分だよ」

     「事前にHPで確認するのを忘れずに」

コースケ君「了解です!空気いっぱい吸ってきます」


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