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弥生時代の青森

正木明人先生は元小学校の教師。今は父親の跡を継いで老舗の古本屋を営んでいます。中学1年生のたかや君は当時の教え子。

明人先生とお話をするのが大好きで、ちょいちょいやってきては色々と質問をしていきます。

年代物の厚いガラスがはまった重い扉を軽々と押し開け、今日も彼が入ってきました。

たかや君「先生こんにちは!」

明人先生「やあ、たかや君こんにちは」

たかや君「先生、聞きたいことがあるんです」

明人先生「そら来た!今日は何だね?」

たかや君「先生、弥生時代に入ってから北部九州とか西日本の話ばかりしている気がするのですが、東日本はどうなっているんですか」

明人先生「そうだねえ有名な『吉野ケ里遺跡』は佐賀県だし。水田稲作を取り入れて様相が大きく変化したところを見ていくと確かに西日本が多いかな」

たかや君「縄文時代の『三内丸山遺跡』は青森県でしたね」

    「青森県を含む東北地方が縄文時代の中心の集落のような印象を受けたし“火焔型土器”の北陸地方は面白かった」

    「それまで盛んであった縄文時代の集落は弥生時代になってどのように変わっていったのですか?」

    「水田稲作って西からどんどん東へそして北上していったのですか?」

明人先生「わかった、わかった。それでは今回は『三内丸山遺跡』がある青森について見ていこう。三内丸山のその後の様子ということだ」

たかや君「ぜひお願いします」


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明人先生「縄文時代というのはドングリなど堅果類を中心とした食生活だったよね」

    「それらを多く実らす植生の地域、つまり落葉広葉樹林が広がる地域は東日本で、遺跡の多くも東に集中していた」

    「青森県の『三内丸山遺跡』などはその典型だったし、その周辺の東北地方がまさに縄文らしい生活をしていたといえる」

    「だからというわけではないが気候が寒冷化し針葉樹が増えてくると生活は基盤を失ってしまうことになる」
    
    「『三内丸山遺跡』の終焉の原因ははっきりしないが縄文時代中期末、今から4千年ほど前になると集落の人口は減少していく」

    「集落は移動しその後拡散・分散していったと考えられているよ」
     
    「その後は環状列石などを形成する新しいタイプの集落ができるが、『三内丸山遺跡』のような大規模な集落はつくられていない」

    「小規模な形で地域の植生に合った生活をしていったのだろう」

たかや君「それが大陸や朝鮮半島から水田耕作や青銅器・鉄器が北部九州から入ってきたことによって…」

明人先生「そう、変わってきたんだ」

たかや君「先生、東北地方も水田稲作が入ってきたら全く状況は変わってしまったんですか?」

    「縄文時代に行っていたこと、たとえばお祭りなんかもやらなくなっっていったのですか?」

明人先生「うん、そこのところだね」

    「元々お米というのは東南アジアなど暖かいところのものだ」

    「それを日本人が長い年月をかけ品種改良などをして、今では北海道でも美味しいお米が収穫できるようになった」

    「でもそれ以前は、南北に長い日本列島では北に行くほど稲作が難しいと考えられていた」

    「東北地方では鎌倉時代くらいまで水田稲作は行われなかった、というのが長い間の定説だったんだ」

たかや君「ええ~、何でそんな遅くまで?」

明人先生「『日本書紀』に“五穀がなく、肉を食べている”と書かれていてね、そのように信じられていたのだろう」

たかや君「全然違うでしょ。三内丸山ではたくさんのクリを食べていた」

明人先生「そもそも当時(8世紀はじめ)は関東地方から東北地方を“蝦夷”が住むところと認識し、『日本書紀』はかなり蔑視した感じで書いているんだよ」

たかや君「どうしてですか?そんなひどいこと」

明人先生「“蝦夷”とは中央政権に従わない人々のことだからね。朝廷のあった近畿地方から見て、関東地方や東北地方は未開の果てのよう映ったのだろう」

    「まあ、それはまた別の機会に取り上げるとして」

    「青森県ではまず中期というから紀元前後の『垂柳遺跡』で約4000㎡もの水田跡が1981年に確認された」

    「今と違って1面が小さいけれど656面というからすごく広大だね。水路やあぜ道もあったそうだよ」

たかや君「すごいなあ、今の東北地方の“米どころ”っていうイメージと変わらないですね」

明人先生「そうだね。この『垂柳遺跡』の発見によって東北地方でも弥生時代から水田耕作が行われたことがはっきりしたわけだけど、これだけじゃない」

    「この発見の5年後には岩木山の北東のふもとのため池の底から水田跡が発見された」

たかや君「ため池の“底”ですか?」

明人先生「そう。そのため池は農業用として使われているものでね、現役なんだ。だから、農繁期の水位の下がる時にしか調査できなかったので大変だったそうだよ」

    「その調査の結果発見されたのが『砂沢遺跡』(弘前市)だ」

    「なんと縄文時代の晩期終末の遺跡で、水田跡は弥生時代前期になる。東日本で最も古く、世界史的にも最も北に位置する水田跡なんだ」

    「6面あって、溝なども確認されている」

たかや君「東日本で最も古い水田跡がどうしてそんな北に位置しているんでしょう?」

明人先生「広く西日本に分布し初期の水田稲作の西から東への拡大の指標となっている土器で“遠賀川式土器”というのがある」
     
    「それが青森・秋田・山形の各県で発見されていてね。日本海側から伝わったのではないかと推測されている」

たかや君「海のルートですね。水田稲作もそのようにして伝わった!」

明人先生「うん、そういうこと。関東地方よりも東北地方の方が早かったのはそういうわけだ」

たかや君「先生、それで人々の生活はどうなったんですか?急に新しいものが入ってきて生活は一変しちゃったでしょ」

明人先生「『砂沢遺跡』の方だけど、新しいものは穏やかな感じで導入されていったのではないかな」

    「水田耕作については岩木山から流れる水を利用しているわけだけどため池や用水路が作られていて、冷たい水が直接田に行かないように配慮されてる」

たかや君「稲作に対してすごく考えられているわけですね。狩猟採集から作業の中心は農業に移っちゃったんですか?」

明人先生「いや、石鏃がは出土しているのでコメ作りの傍ら狩猟も行っていたのだろう。それに逆三角形をした頭部を持つ土偶も発見されているんだよ」

    「炭化米や古墳時代でも確認される管玉とともに縄文の名残の土偶が現れるの面白いね」

たかや君「縄文・弥生・古墳が一か所にあるということですね」

    「ああ、何だかわかってきた。弥生時代といってもすべてがすっかり変わっていったということではないんだ」

明人先生「そうだね。東北地方は特にそういうことが言えるし、北海道などは『続縄文文化』といって結局弥生らしい様相は確認できていない」

    「東北地方の水田稲作にしても『砂沢遺跡』と『垂柳遺跡』の2例が突出して早く、弥生時代中期後半前後までは一般的には受容されなかったと考えられている」

    「残すものは残し変化するものはゆっくりと変化していったのではないかな」

たかや君「北部九州や島根や鳥取などの地域とそこが違う感じですね。あの辺りは急激に変化していった」

明人先生「うん。時間の流れが東日本と西日本では異なるね。それに、『砂沢遺跡』についてはもう少し」

    「研究者の中には木製農具や稲の穂を摘むための石包丁が発見されていないの稲作は定着しなかったのではないかという見方がある」

たかや君「ええ何故?今度は逆戻りですか?」

明人先生「いやいや、そういうことじゃない。稲作がこの地域で始まったとは断言できないということだ」

    「これについてはしかし、調査の全貌が明らかにならないと明確なことはわからないし、周辺で何かの発見があるかもしれない」

たかや君「うう~ん、結論は慎重にということか。先生、もう一方の『垂柳遺跡』の方はどうですか?」

明人先生「こちらは埋もれてしまったんだよ」

たかや君「ええ~、埋もれたぁ~?」

明人先生「『垂柳遺跡』がある田舎館村から北東に八甲田山がある。その八甲田山が過去に噴火をしていてね」

    「その噴火物が遺跡の北側を流れる浅瀬石川の氾濫で集められ水田をすっぽり埋めてしまったそうなんだ」

たかや君「そのあとは耕作されなかったんですか?」

明人先生「打ち捨てられたような状態になったみたいだね。その後耕作されたのは平安時代になってからだそうだ」

    「でもね、そのために当時のそのままの状態が保たれた」

たかや君「どういうことですか?」

明人先生「噴火物の層をはいでいくと注水や配水のための水口や畦がはっきりと現れ、さらに1586個もの弥生人の足跡が見つかったんだよ」

たかや君「すっごいですねえ」

明人先生「大人から子供まで様々なサイズの足跡で、家族ぐるみで作業していたのではないかと考えられている」

たかや君「何だか目に浮かぶようだ。当時の農作業というのはどこも『垂柳遺跡』のように家族が力を合わせてやっていたんでしょうね」

    「でもそれが洪水のために一瞬にして…」

明人先生「そういうことになるね」

    「『垂柳遺跡』からは木製の鍬も発見され水利システムも整備されている」

    「中期の遺跡ということだし、水田耕作は定着していたといえる。洪水がなかったらもっと続いていただろう」

たかや君「先生、その足跡って見ることできますか?」

明人先生「“田舎館村埋蔵文化センター”という所で見ることができるよ」

    「このセンターは実は水田跡の上に建てられていて、
     “露出展示室”で約2000年前の地面の上を歩くことができるんだ」

たかや君「わあ~面白そうですね。アクセスは何ですか?」

明人先生「電車ではJR弘前駅から弘南鉄道を利用して“田舎館駅”下車」

    「バスではJR弘前駅からイトーヨーカ堂バスターミナルから乗って
     “田舎館村高樋”で下車。そこからともに歩いて10分だよ」

    「この施設は“道の駅 いなかだて 弥生の里”の敷地内にあるので、
     自動車で行くと分かり易いかもしれない」

    「東北自動車道の黒石ICから約5分だ」

    「田舎館村というのは“田んぼアート”で有名なところだから、
     田んぼに稲が植わっている期間に行くといいよ」

たかや君「そうですね、2000年前の足跡と一緒に現代のアートも見てきます」


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